上書きされた空白の上に。
*
深い、深い眠りの奥。気怠い全身の感覚。
僕は真っ白な空間に一人佇む。
辺りには草一つ建物一つ無い。白い部屋が、壁も隔たりも無く続くだけ。
僕は何をしている。
今までどこで、何してたっけ。
とても大切な事、幾つも忘れてる気がする…。
「フタバちゃん」
呼ばれて振り返ると、そこに女の子が立っていた。
僕の腰くらいの背丈の、白いパジャマを着た女の子。
亜麻色の髪を右側へ一括りにし、手には大きなテディベア。
くるりと大きな瞳と、愛らしい面差しが印象的な、7・8歳くらいの少女。
少女は花柄のサンダルをキュッキュと鳴らして、僕の側に歩み寄る。
「フタバちゃん、私が誰か分かる?」
…分からない。
僕が唐突な質問に困惑しているのを察して、少女は悲しげに「いいの」とだけ答えた。
「…そのはずなんだもの。フタバちゃんは、悲しい事、辛い事、もう一度忘れたはずなんだから。
…私はユキ。フタバちゃんと、フタバちゃんのお父さんに、もう一度御礼を言いに来ただけ」
「おとーさん、に?」
僕一人しかいない空間のはずなのに、ユキと名乗る少女は義父も尋ねてきたらしい。
義父も、ここのどこかにいるのだろうか。
「いるわよ。でも、もうずっと向こうに行っちゃったわ。さっきお話したのに、もう随分遠くへ行っちゃった。
フタバちゃんのお父さん、足がとっても速いのね。それとも、死んだら足が速くなるのかしら?」
…死んだ、ら?
それって、まさか…。
全身から、血の気が引いていくのが分かった。
「…今ならまだ間に合うわ。フタバちゃん、走ったら追いつけるかもしれない。
フタバちゃんも鬼ごっこ、かけっこ得意だったって言ってたもんね。でも、その前にこれ、受け取って」
僕の手に、少女は小さな塊を乗せる。
そっと、重ねた掌を開くと、それはトランプサイズのカードの束だった。
表面の下段に数が割り振られ、ゴシック風な青と白基調のデザインが施されたカードは、全部で22枚。
裏面はモノトーン調の仮面が描かれ、表面は数字部分以外は全て無地。周囲に施された飾り罫は竪琴だろうか。
「それは贈り物よ。フタバちゃん、皆貴方に謝りたいと思ってたみたい。だけど、今更許してもらえるかどうか分からないし、顔を合わせるの、気まずい子もいたから、私が代表で渡しに来たの。それは皆の力の器。いつか、貴方が強い絆を得た時に、そのタロットカードは像を得て、貴方の力になる日が来るわ」
カード。力の器。絆…。
さっぱり分からない。
僕が眉間にシワを寄せて悩んでいると、少女は寂しげに微笑んでいた。
その笑顔に、一瞬胸が締め付けられるような悲しみを覚え、訳も無く胸が騒いだ。
ふふふ、とユキは初めて明るい笑顔を見せる。
だけど、その目尻の端には光る粒がこぼれそうになっているのを見て、抱きしめてあげたいとさえ僕は思った。
腰を下ろそうとしたとき、ユキは「駄目よ」と大人びた表情で人差し指を立てて口の前に立てる。
「フタバちゃん、もう行かなくちゃ…私は平気。待ってるから。だけど、もし好きな人が出来たら、私フタバちゃんの応援するね。
とびきり可愛い子を、好きになって。もし結婚したら、フタバちゃんの娘になりに行くから」
「ユキ、ちゃん」
「名前で呼ばないで。帰りたくなくなっちゃうから。…フタバちゃんのお父さんはあっちにいるわ。さ、早く」
少女の頬に一筋涙が伝うのを見て、どうしようもない胸のざわつきを押さえられずに、僕は少女を抱きしめた。
何故だろう。知らないはずの女の子なのに、僕まで悲しくて涙が出てきそうになる。
ありがとう、と少女の声が聞こえ、腕の中から感触が音も無く消え去る。
「嬉しいから、おまけつけちゃう☆」
頬に一瞬だけ唇が触れる感触がして、思わず顔を上げると、先程の少女は僕と同じくらい、瑞々しい17・8歳くらいの少女の姿で天に軽やかに舞い上がっていった。その一瞬見た少女の美貌と頬に残された感触で、僕は全身が真っ赤に熱くなるのを感じ、一人きりなのに照れくささで恥ずかしくなった。あんな綺麗な女の人にキスされたの、初めてだ。
そう思い返し、僕はまた耳まで一瞬にして沸騰してよろよろとその場に腰を抜かす。
手元で、無地のタロットカードをめくり、たった一枚だけ、うすらぼんやりと像を為しているカードがあるのに気付く。
「恋愛」のタロット。
中央に描かれているらしい肖像は、ぼやけて薄墨のような色の滴にしか見えなかった。
「エウリュディケ…」
口から無意識にこぼれた言葉。
訳も分からず後から後からこぼれてくる涙を拭うと、彼女の指し示してくれた方向へと、僕は一心不乱に駆け出した。
深い、深い眠りの奥。気怠い全身の感覚。
僕は真っ白な空間に一人佇む。
辺りには草一つ建物一つ無い。白い部屋が、壁も隔たりも無く続くだけ。
僕は何をしている。
今までどこで、何してたっけ。
とても大切な事、幾つも忘れてる気がする…。
「フタバちゃん」
呼ばれて振り返ると、そこに女の子が立っていた。
僕の腰くらいの背丈の、白いパジャマを着た女の子。
亜麻色の髪を右側へ一括りにし、手には大きなテディベア。
くるりと大きな瞳と、愛らしい面差しが印象的な、7・8歳くらいの少女。
少女は花柄のサンダルをキュッキュと鳴らして、僕の側に歩み寄る。
「フタバちゃん、私が誰か分かる?」
…分からない。
僕が唐突な質問に困惑しているのを察して、少女は悲しげに「いいの」とだけ答えた。
「…そのはずなんだもの。フタバちゃんは、悲しい事、辛い事、もう一度忘れたはずなんだから。
…私はユキ。フタバちゃんと、フタバちゃんのお父さんに、もう一度御礼を言いに来ただけ」
「おとーさん、に?」
僕一人しかいない空間のはずなのに、ユキと名乗る少女は義父も尋ねてきたらしい。
義父も、ここのどこかにいるのだろうか。
「いるわよ。でも、もうずっと向こうに行っちゃったわ。さっきお話したのに、もう随分遠くへ行っちゃった。
フタバちゃんのお父さん、足がとっても速いのね。それとも、死んだら足が速くなるのかしら?」
…死んだ、ら?
それって、まさか…。
全身から、血の気が引いていくのが分かった。
「…今ならまだ間に合うわ。フタバちゃん、走ったら追いつけるかもしれない。
フタバちゃんも鬼ごっこ、かけっこ得意だったって言ってたもんね。でも、その前にこれ、受け取って」
僕の手に、少女は小さな塊を乗せる。
そっと、重ねた掌を開くと、それはトランプサイズのカードの束だった。
表面の下段に数が割り振られ、ゴシック風な青と白基調のデザインが施されたカードは、全部で22枚。
裏面はモノトーン調の仮面が描かれ、表面は数字部分以外は全て無地。周囲に施された飾り罫は竪琴だろうか。
「それは贈り物よ。フタバちゃん、皆貴方に謝りたいと思ってたみたい。だけど、今更許してもらえるかどうか分からないし、顔を合わせるの、気まずい子もいたから、私が代表で渡しに来たの。それは皆の力の器。いつか、貴方が強い絆を得た時に、そのタロットカードは像を得て、貴方の力になる日が来るわ」
カード。力の器。絆…。
さっぱり分からない。
僕が眉間にシワを寄せて悩んでいると、少女は寂しげに微笑んでいた。
その笑顔に、一瞬胸が締め付けられるような悲しみを覚え、訳も無く胸が騒いだ。
ふふふ、とユキは初めて明るい笑顔を見せる。
だけど、その目尻の端には光る粒がこぼれそうになっているのを見て、抱きしめてあげたいとさえ僕は思った。
腰を下ろそうとしたとき、ユキは「駄目よ」と大人びた表情で人差し指を立てて口の前に立てる。
「フタバちゃん、もう行かなくちゃ…私は平気。待ってるから。だけど、もし好きな人が出来たら、私フタバちゃんの応援するね。
とびきり可愛い子を、好きになって。もし結婚したら、フタバちゃんの娘になりに行くから」
「ユキ、ちゃん」
「名前で呼ばないで。帰りたくなくなっちゃうから。…フタバちゃんのお父さんはあっちにいるわ。さ、早く」
少女の頬に一筋涙が伝うのを見て、どうしようもない胸のざわつきを押さえられずに、僕は少女を抱きしめた。
何故だろう。知らないはずの女の子なのに、僕まで悲しくて涙が出てきそうになる。
ありがとう、と少女の声が聞こえ、腕の中から感触が音も無く消え去る。
「嬉しいから、おまけつけちゃう☆」
頬に一瞬だけ唇が触れる感触がして、思わず顔を上げると、先程の少女は僕と同じくらい、瑞々しい17・8歳くらいの少女の姿で天に軽やかに舞い上がっていった。その一瞬見た少女の美貌と頬に残された感触で、僕は全身が真っ赤に熱くなるのを感じ、一人きりなのに照れくささで恥ずかしくなった。あんな綺麗な女の人にキスされたの、初めてだ。
そう思い返し、僕はまた耳まで一瞬にして沸騰してよろよろとその場に腰を抜かす。
手元で、無地のタロットカードをめくり、たった一枚だけ、うすらぼんやりと像を為しているカードがあるのに気付く。
「恋愛」のタロット。
中央に描かれているらしい肖像は、ぼやけて薄墨のような色の滴にしか見えなかった。
「エウリュディケ…」
口から無意識にこぼれた言葉。
訳も分からず後から後からこぼれてくる涙を拭うと、彼女の指し示してくれた方向へと、僕は一心不乱に駆け出した。
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