いつか、道が分かたれるとしても。
*
「主任、いっつも何聴いてるんですか?それ」
こないだ中途採用で入社したばかりの若い後輩に、首から下げた新品のMP3プレーヤーを指差されて陽一は「ああ、これな」とにらめっこしていたパソコン画面から顔を上げた。残業時間にはいつもイヤホンをして作業に没頭しているので、目に付いたのだろう。
「洋楽ばっかだよ。流行りの邦楽は乳臭くて聴けねえし」
「へぇ、渋いっすね。僕はホーミング娘。ばっかりですよ」
「だろうな。お前のデスクはアイドルグッズばっかりじゃねえの」
「そういう主任のデスクだって」
書類と資料とパソコンソフトのハンドブックに埋もれた小汚いデスクの片隅にある、写真立てに後輩の目が向く。
「あれ、息子さんなんでしょ?もう結構大きいのに、仲良いんですね。肩組んだりなんかしちゃって。そのMP3も誕生日にもらったって聞きましたよぉ。その写真、最近のです?」
「ん、ああ。こないだ高校に受かってな。その時の入学式で撮った奴だ」
「進学校にトップ合格だったって聞きましたよ。優秀なんですね~」
「まあな。あれは俺に似ないで出来の良い奴に育ったから」
「謙遜スね。顔はお母さん似なんです?」
「顔もオツムも母親似だよ…ほら、お前もくっちゃべってないで、さっさと仕事終わらせろよ。後、デスクのボトルキャップも適当に片しとけよ」
「あーい」
引っ越してあれから一年以上が経つ。
この職場にも随分慣れて、仕事も面白い。
双葉は高校生になって、私生活も充実してきた様子だ。
友達も出来て、やっと穏やかな学生生活を過ごしているようである。
俺は仕事に、双葉は学校に。
お互いが、少しずつ、距離を置き自分だけの時間を過ごす。
それでも、ふとした瞬間に、いつもきっと繋がりを感じている。
互いに、独り立ち。
そう遠くない未来、道は分かたれる。
でも、それは別れではなくて、ごく自然なこと。
寂しくはない。そこにはいつも充足された、かけがえのない毎日があるのだから。
そうだよな、双葉。
手元のMP3を指で弄びながら、陽一はそう思った。
*
その年の冬。
曇天の重い寒空の下、屋上で昼食の菓子パンをかじっていると、ふいに懐の携帯電話が鳴った。
『お久しぶりっす』
「おう榎本、元気してたか?」
最後に会ってから随分経つが、あの妙に甘ったれた軽い声を聞くとすぐに分かる。
榎本聡一郎(えもと そういちろう)。
桐条時代の後輩で、今は無気力症を専門とする精神科医になったと聞いている。
『はい、お陰様で』
「メールが届いてたみたいだな。で、どうだ?頼んでおいたシャドウの資料、見つかりそうか?」
『それなんですけど、僕、来月から半年ほどそっちの街の病院へ転勤になりまして。で、その時にまた連絡入れますから、心の準備だけしておいて下さいね。つっても、大した情報じゃないかも知れないですけど』
「いや、構わないさ。恩に着るよ」
電話を切ると、陽一は曇天の空を仰ぐ。
口元から、白い息が紫煙のように細くこぼれて、そして消えた。
*
半月後。
「おとーさん、もう会社行くの?」
「おお」
朝早く、挨拶もそこそこに戸口から出て行こうとすると、学ランに着替えた双葉に呼び止められた。
「今日、早く帰ってきてね」
「分かってるよ」
「ごちそう作って待ってるから」
「お前の好きなものを作っとけよ。お前のお祝いする日なんだからな」
「そりゃもちろん。…ねえ、おとーさん」
「うん?」
「…ありがとう」
そう言って、双葉は嬉しそうに歯を見せて、子供のように笑った。
それが、あいつの笑顔を見た、最後だった。
*
夕方になって早々と会社を出ると、まっすぐ大型電機量販店に向かう。
毎年、いつもどれだけ手元不如意でも、前日には用意していたのだが今年は仕事が多く流石に無理だった。
そろそろ、双葉が家でやきもきしてる事だろう。あまり待たせると、こういう日に限っては不機嫌そうな顔をする。
近道しようと思い、街の大通り脇を通り過ぎようとしていた時に、携帯電話が鳴った。
『榎本です』
「来たか。今どこだ?」
『駅前です。寒いっすね、こっち…丁度、今着いた所ですが、今日お時間いいですか?』
「いや。今日はちょっと先約が入ってる。また後日、連絡入れてもいいか?」
『そっすか、ラジャーっす…いや、一応ペルソナの安定剤持ってきてたんでお渡ししようかと』
「ああ、それなら心配いらねえよ。半年前のがまだあるから」
『………え?』
電話の向こうで、榎本の声が震えたのが分かった。
『…それ、なんですか?』
「は?だから、安定剤。お前、ここ数年は毎年2回ずつ、きっちり俺に送ってきてただろ?」
『そんなはずない…』
「?」
『僕、最初に言ったはず、ですよね?安定剤でも身体に悪いから、先輩が必要な時にメールしてくださいって。だから、三年前からずっとメールが無かったから、僕…何も………』
榎本の声が聞き取り辛くなる。涙声になったのか、今にも消え入りそうに掠れている。
「んな、じゃあ、あれは………?」
『知らないですよ!だからこないだメール来た時はホントに驚いたんですから!それ、今どこにあります?手元に持たれてますか?お時間取らせませんから、すぐにその薬の分析を……』
そこまで、涙声でまくしたてる声が聞こえて、途端に足下が粘土のようにグニャリと曲がった。
下半身から力が抜ける。何だ、一体どうしたんだ俺は。
榎本の声がケータイから聞こえる。周りの足音が、誰かの話し声が、車の排ガスを吹き出す音が、全てグチャグチャになる。
何もかもが雑音に変わる。世界が、曲がる。RGBの、点描の、ざらざらした世界に曲がっていく…。
胸に激痛が走って、口の中が鉄の味で満たされて吐き気がした。
目の前に、赤黒い滴が吹き出してこぼれる。
白い点に混じって、アスファルトの上に、何度も、幾重にも、赤黒いそれがこぼれる。
ジャケットを羽織った背中に寒気を感じる。その上を、冷たい欠片がかすめていくのを感じる。
へえ、誕生日に今年の初雪か。
あいつ、喜ぶな。
そう思った直後、全てが暗転して、何も聞こえなくなった。
「主任、いっつも何聴いてるんですか?それ」
こないだ中途採用で入社したばかりの若い後輩に、首から下げた新品のMP3プレーヤーを指差されて陽一は「ああ、これな」とにらめっこしていたパソコン画面から顔を上げた。残業時間にはいつもイヤホンをして作業に没頭しているので、目に付いたのだろう。
「洋楽ばっかだよ。流行りの邦楽は乳臭くて聴けねえし」
「へぇ、渋いっすね。僕はホーミング娘。ばっかりですよ」
「だろうな。お前のデスクはアイドルグッズばっかりじゃねえの」
「そういう主任のデスクだって」
書類と資料とパソコンソフトのハンドブックに埋もれた小汚いデスクの片隅にある、写真立てに後輩の目が向く。
「あれ、息子さんなんでしょ?もう結構大きいのに、仲良いんですね。肩組んだりなんかしちゃって。そのMP3も誕生日にもらったって聞きましたよぉ。その写真、最近のです?」
「ん、ああ。こないだ高校に受かってな。その時の入学式で撮った奴だ」
「進学校にトップ合格だったって聞きましたよ。優秀なんですね~」
「まあな。あれは俺に似ないで出来の良い奴に育ったから」
「謙遜スね。顔はお母さん似なんです?」
「顔もオツムも母親似だよ…ほら、お前もくっちゃべってないで、さっさと仕事終わらせろよ。後、デスクのボトルキャップも適当に片しとけよ」
「あーい」
引っ越してあれから一年以上が経つ。
この職場にも随分慣れて、仕事も面白い。
双葉は高校生になって、私生活も充実してきた様子だ。
友達も出来て、やっと穏やかな学生生活を過ごしているようである。
俺は仕事に、双葉は学校に。
お互いが、少しずつ、距離を置き自分だけの時間を過ごす。
それでも、ふとした瞬間に、いつもきっと繋がりを感じている。
互いに、独り立ち。
そう遠くない未来、道は分かたれる。
でも、それは別れではなくて、ごく自然なこと。
寂しくはない。そこにはいつも充足された、かけがえのない毎日があるのだから。
そうだよな、双葉。
手元のMP3を指で弄びながら、陽一はそう思った。
*
その年の冬。
曇天の重い寒空の下、屋上で昼食の菓子パンをかじっていると、ふいに懐の携帯電話が鳴った。
『お久しぶりっす』
「おう榎本、元気してたか?」
最後に会ってから随分経つが、あの妙に甘ったれた軽い声を聞くとすぐに分かる。
榎本聡一郎(えもと そういちろう)。
桐条時代の後輩で、今は無気力症を専門とする精神科医になったと聞いている。
『はい、お陰様で』
「メールが届いてたみたいだな。で、どうだ?頼んでおいたシャドウの資料、見つかりそうか?」
『それなんですけど、僕、来月から半年ほどそっちの街の病院へ転勤になりまして。で、その時にまた連絡入れますから、心の準備だけしておいて下さいね。つっても、大した情報じゃないかも知れないですけど』
「いや、構わないさ。恩に着るよ」
電話を切ると、陽一は曇天の空を仰ぐ。
口元から、白い息が紫煙のように細くこぼれて、そして消えた。
*
半月後。
「おとーさん、もう会社行くの?」
「おお」
朝早く、挨拶もそこそこに戸口から出て行こうとすると、学ランに着替えた双葉に呼び止められた。
「今日、早く帰ってきてね」
「分かってるよ」
「ごちそう作って待ってるから」
「お前の好きなものを作っとけよ。お前のお祝いする日なんだからな」
「そりゃもちろん。…ねえ、おとーさん」
「うん?」
「…ありがとう」
そう言って、双葉は嬉しそうに歯を見せて、子供のように笑った。
それが、あいつの笑顔を見た、最後だった。
*
夕方になって早々と会社を出ると、まっすぐ大型電機量販店に向かう。
毎年、いつもどれだけ手元不如意でも、前日には用意していたのだが今年は仕事が多く流石に無理だった。
そろそろ、双葉が家でやきもきしてる事だろう。あまり待たせると、こういう日に限っては不機嫌そうな顔をする。
近道しようと思い、街の大通り脇を通り過ぎようとしていた時に、携帯電話が鳴った。
『榎本です』
「来たか。今どこだ?」
『駅前です。寒いっすね、こっち…丁度、今着いた所ですが、今日お時間いいですか?』
「いや。今日はちょっと先約が入ってる。また後日、連絡入れてもいいか?」
『そっすか、ラジャーっす…いや、一応ペルソナの安定剤持ってきてたんでお渡ししようかと』
「ああ、それなら心配いらねえよ。半年前のがまだあるから」
『………え?』
電話の向こうで、榎本の声が震えたのが分かった。
『…それ、なんですか?』
「は?だから、安定剤。お前、ここ数年は毎年2回ずつ、きっちり俺に送ってきてただろ?」
『そんなはずない…』
「?」
『僕、最初に言ったはず、ですよね?安定剤でも身体に悪いから、先輩が必要な時にメールしてくださいって。だから、三年前からずっとメールが無かったから、僕…何も………』
榎本の声が聞き取り辛くなる。涙声になったのか、今にも消え入りそうに掠れている。
「んな、じゃあ、あれは………?」
『知らないですよ!だからこないだメール来た時はホントに驚いたんですから!それ、今どこにあります?手元に持たれてますか?お時間取らせませんから、すぐにその薬の分析を……』
そこまで、涙声でまくしたてる声が聞こえて、途端に足下が粘土のようにグニャリと曲がった。
下半身から力が抜ける。何だ、一体どうしたんだ俺は。
榎本の声がケータイから聞こえる。周りの足音が、誰かの話し声が、車の排ガスを吹き出す音が、全てグチャグチャになる。
何もかもが雑音に変わる。世界が、曲がる。RGBの、点描の、ざらざらした世界に曲がっていく…。
胸に激痛が走って、口の中が鉄の味で満たされて吐き気がした。
目の前に、赤黒い滴が吹き出してこぼれる。
白い点に混じって、アスファルトの上に、何度も、幾重にも、赤黒いそれがこぼれる。
ジャケットを羽織った背中に寒気を感じる。その上を、冷たい欠片がかすめていくのを感じる。
へえ、誕生日に今年の初雪か。
あいつ、喜ぶな。
そう思った直後、全てが暗転して、何も聞こえなくなった。
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