兄として、跡取りとして。
*
「ねえ、兄ちゃんは~」
「お客様のご案内してるわよ」
蔵の境内にある酒屋の店先で忙しそうに開店の支度をしている姉の背に、ふーん、と言ったきり、少年はぶすっと頬を膨らませた。
翌日。
山並の谷間に薄い雲を望む快晴となったその日は、敦の案内で酒造りの蔵を案内してもらう事になった。
広い敷地内にでんと、佇む瓦葺きの工場の概観や内部をしきりにケータイ撮影する二人を、苦笑まじりに見つめる晶と敦。
「敦君オリゼー見たいです」
「すみません庵先輩、ウチはプレパラート置いてなくって」
「敦、ボケにマジ受け答えで返すな。…ほれ見てみろ、コメントに窮してやがる」
「まさか、それが目当てで来たとか言わないよね庵君…って、え?何でそんな悲しい顔して僕を見つめるの…?えっえっ本気で?」
「やべえこの天才、素か…?…早く気付いてつっこみ入れてやればよかったか…」
「(´・ω・`)ショボーン」
「(…それとも庵、まさかクイズの答えだけじゃなくって菌まで…っていや、それはないか…うんうんないない…)」
晶の脳内に、無用な気がかりは増えるばかりであった。
………それから。
昼前までには大体の見学も済み、蔵の裏手から表玄関への戻り道で、置き石を踏み踏み帰りながら、後は別に目新しいものもないかなと敦は呟く。
「夕方にでも、お酒の試飲してみますか?」
「え、いいのか?」
「いいですよ~。父が帰った時にでも」
「楽しみ~。ねえ、先輩?」
「だなあ」
普段は焼酎一本と公言している先輩でさえ、目の前の誘惑には素直である。
いつも見せないような一番いい笑顔を浮かべている…。
もしかしたら、それが一番の目的だったんじゃないかと錯角するほどに。
と、ふいに大輔のニンマリ笑顔が硬直し、身じろぎせぬまま黒目だけが背後へと動く。
「…」
「…」
「…」
「…?皆さん、どうかしましたか?」
首を傾げる敦に、庵は「感じないか?」と小声で耳打ちする。
「いるよね」
「誰かが」
「ずっと背後に…」
「あっ」
三人に向かい合う形で振り向いた敦の視界の端で、何かが逃げ去るのが見えた。
しかも、見慣れたユニ●ロのキャラTシャツだったような…。
「ネム…」
そう、あの小さな人影は敦の弟に間違いなかった。
それは、他の三人も既に肌で感じ取っていたようだ。
「何だろう、見学当初からずっと背後に視線を感じてたような」
「…そうだったんですか。すみません、僕全然気付かなくて」
「(どんだけ鈍感なんだ…)」
「(僕はおろか、あの天然ボケな庵ですら気付いているほどのあからさまな尾行だったのに…!)」
全く恐縮です、とペコペコと頭を下げる敦に気兼ねするよりも先に、敦の天然具合が気にかかる大輔と晶であった。
「きっと警戒してるだけだとは思うんですけど。何かあったら、きつく言い聞かせますからすぐ言ってくださいね」
「それならいいが…その、何か俺等あいつを怒らせるような事したのか?ずっと不満気な気配だったような…」
「ああ、それは…きっと僕が相手をしてあげられてないからだと思います。休みはずっといつも付きっきりだったから…」
「…付きっきり???」
ハテナマークを浮かべる三人に、敦は複雑な笑顔を浮かべて「縁側にでも行きましょうか」と三人を母屋の奥へと誘った。
*
こじんまりながら、池もついてる立派な庭付きの縁側で、酒蒸し饅頭をお茶請けにまったりとくつろぐ。
剪定したての松の枝振りが美しい。池では、金色の錦鯉がぱしゃりと水音を立てた。
「お茶すみません、お姉さん」
いいえ、と、裏手の酒屋を骨休めにして昼食に戻っていた敦の姉は、傍らで静かに目を細める。
「あの子の事は、気にしないであげて下さいね。お兄ちゃんが構ってくれないんですねてるだけですから」
そそくさと去っていく姉の背中を横目に、敦は「僕のせいなのかなぁ」と溜息混じりに肩を落とす。
「どういうこと?敦」
「悩んでるなら、言ってみ」
有り難うございます、と敦は姉そっくりの顔で力無く微笑んだ。
「僕の母は、双子の弟と妹を産んでからほどなくして亡くなりました。それから、ずっと僕は忙しい父や姉に代わって弟たちの面倒を見てたんですが…」
濃い玉露の冷茶を手にしたまま、とうとうと語る敦の表情が少し曇る。
格子模様のグラスの表面で、茶柱がゆらゆらと揺れる。
母をほとんど知らないまま失った、年の離れた弟と妹を不憫に思い、敦は家族の中でも一番に兄妹を大切に育てた。
特に、弟のネムは生まれつき身体が弱く、喘息とアトピー持ちで、小さい頃は度々全身を発疹だらけにして深夜でも泣き叫んだという。
それをずっとあやして、なだめて、薬を塗ってやったり、遊んでやったり、本を読み聞かせてたり寝かしつけたりしたのは、ずっと敦だった。
次第に、弟たちも父や姉よりずっと敦に懐き、特にネムは何でもかんでも敦に甘えてきた。
家にいるときは、いつも。四六時中といっても間違いはなかった。
普段も、休みの日も、友達でなく兄の敦とばかり遊びたがる弟に、家族は皆「お兄ちゃんに甘えすぎだ」と次第に渋い顔を浮かべはじめた。
敦自身もそれは気にかかっていたが、成長すれば、きっと自立するだろうと高をくくっていた。
が。
妹のアコは、女の子らしくおしゃまでおしゃべりになり、今は学校の友達と仲良くしているが、ネムは相変わらず兄に甘えてばかりいた。
学校でも、身体が弱くいじめられっ子で、家に帰るといつも敦にワンワンと泣いて甘えて、家の中では反動でわがまま放題。
時折父が「自分でなんとかしろ」と叱っても、知らんぷりで敦の背中に逃げ隠れてあかんべーをする。
「…僕がクイズの大会出たいって言った時なんか、一晩中わあわあ大騒ぎしてました。
まだ予選にも出てないのに、僕が東京に何日も出かけるなんて嫌だって。
もう予選通過した後の事まで考えて心配してるんですよ?…あんまり泣き叫ぶんで流石に気になって、そのままずっと行けずじまいになってしまって」
「ひでえブラコンだな…」
「家族も、僕の同級生もそう言ってますけど、確かにネムは身体が弱いし、万一喘息の発作が出たり全身にアトピー出たら、と思うと、大学に来たばかりの頃は毎晩心配でした。あの子、お薬とか平気で適当な所にほったらかすし、僕以外が薬塗ると違うそこじゃないって文句ばっかりで…姉さんにワガママ言ってないかな、とか…依頼心とか、そういうのも考えますけど、放っておけなくて…」
「それでよく、県外の大学に進学できたな…弟君、大騒ぎだったんじゃないの?」
「父さんがネムを一喝して、行かせてくださったんです。僕のためでもあるし、ネムのためでもあるからって」
「それは、そう思うわな…」
饅頭を一口かじって、庵は「どこのウチでも色々あるよな」と、空を仰いでポツリと洩らす。
しばらくの間、もそもそと饅頭をほおばり、お茶を啜る音だけが縁側に響く。
お茶とお菓子がなくなったころ、廊下の向こうから「お昼出来ましたよぉ」と、敦の姉が呼ぶ声がした。
はあい、と敦は返事をすると、傍らのお盆に三人の皿を手早く重ねて片付ける。
「新潟の次は、どちらへ行かれるんですか?」
「え…ああ、まだ未定だけど」
そうですか、と敦は空を見上げる。その視線は、どこか遠い。
「旅っていいですね。僕ももう何年か経ったら、どこかへフラっと行きたいな」
また大学始まったら、お土産話でも聞かせてくださいね、と敦は空を仰いだままそう呟いて微笑んだ。
【7月20日午後・弟は先に昼食中・今日の昼はそうめん】
「ねえ、兄ちゃんは~」
「お客様のご案内してるわよ」
蔵の境内にある酒屋の店先で忙しそうに開店の支度をしている姉の背に、ふーん、と言ったきり、少年はぶすっと頬を膨らませた。
翌日。
山並の谷間に薄い雲を望む快晴となったその日は、敦の案内で酒造りの蔵を案内してもらう事になった。
広い敷地内にでんと、佇む瓦葺きの工場の概観や内部をしきりにケータイ撮影する二人を、苦笑まじりに見つめる晶と敦。
「敦君オリゼー見たいです」
「すみません庵先輩、ウチはプレパラート置いてなくって」
「敦、ボケにマジ受け答えで返すな。…ほれ見てみろ、コメントに窮してやがる」
「まさか、それが目当てで来たとか言わないよね庵君…って、え?何でそんな悲しい顔して僕を見つめるの…?えっえっ本気で?」
「やべえこの天才、素か…?…早く気付いてつっこみ入れてやればよかったか…」
「(´・ω・`)ショボーン」
「(…それとも庵、まさかクイズの答えだけじゃなくって菌まで…っていや、それはないか…うんうんないない…)」
晶の脳内に、無用な気がかりは増えるばかりであった。
………それから。
昼前までには大体の見学も済み、蔵の裏手から表玄関への戻り道で、置き石を踏み踏み帰りながら、後は別に目新しいものもないかなと敦は呟く。
「夕方にでも、お酒の試飲してみますか?」
「え、いいのか?」
「いいですよ~。父が帰った時にでも」
「楽しみ~。ねえ、先輩?」
「だなあ」
普段は焼酎一本と公言している先輩でさえ、目の前の誘惑には素直である。
いつも見せないような一番いい笑顔を浮かべている…。
もしかしたら、それが一番の目的だったんじゃないかと錯角するほどに。
と、ふいに大輔のニンマリ笑顔が硬直し、身じろぎせぬまま黒目だけが背後へと動く。
「…」
「…」
「…」
「…?皆さん、どうかしましたか?」
首を傾げる敦に、庵は「感じないか?」と小声で耳打ちする。
「いるよね」
「誰かが」
「ずっと背後に…」
「あっ」
三人に向かい合う形で振り向いた敦の視界の端で、何かが逃げ去るのが見えた。
しかも、見慣れたユニ●ロのキャラTシャツだったような…。
「ネム…」
そう、あの小さな人影は敦の弟に間違いなかった。
それは、他の三人も既に肌で感じ取っていたようだ。
「何だろう、見学当初からずっと背後に視線を感じてたような」
「…そうだったんですか。すみません、僕全然気付かなくて」
「(どんだけ鈍感なんだ…)」
「(僕はおろか、あの天然ボケな庵ですら気付いているほどのあからさまな尾行だったのに…!)」
全く恐縮です、とペコペコと頭を下げる敦に気兼ねするよりも先に、敦の天然具合が気にかかる大輔と晶であった。
「きっと警戒してるだけだとは思うんですけど。何かあったら、きつく言い聞かせますからすぐ言ってくださいね」
「それならいいが…その、何か俺等あいつを怒らせるような事したのか?ずっと不満気な気配だったような…」
「ああ、それは…きっと僕が相手をしてあげられてないからだと思います。休みはずっといつも付きっきりだったから…」
「…付きっきり???」
ハテナマークを浮かべる三人に、敦は複雑な笑顔を浮かべて「縁側にでも行きましょうか」と三人を母屋の奥へと誘った。
*
こじんまりながら、池もついてる立派な庭付きの縁側で、酒蒸し饅頭をお茶請けにまったりとくつろぐ。
剪定したての松の枝振りが美しい。池では、金色の錦鯉がぱしゃりと水音を立てた。
「お茶すみません、お姉さん」
いいえ、と、裏手の酒屋を骨休めにして昼食に戻っていた敦の姉は、傍らで静かに目を細める。
「あの子の事は、気にしないであげて下さいね。お兄ちゃんが構ってくれないんですねてるだけですから」
そそくさと去っていく姉の背中を横目に、敦は「僕のせいなのかなぁ」と溜息混じりに肩を落とす。
「どういうこと?敦」
「悩んでるなら、言ってみ」
有り難うございます、と敦は姉そっくりの顔で力無く微笑んだ。
「僕の母は、双子の弟と妹を産んでからほどなくして亡くなりました。それから、ずっと僕は忙しい父や姉に代わって弟たちの面倒を見てたんですが…」
濃い玉露の冷茶を手にしたまま、とうとうと語る敦の表情が少し曇る。
格子模様のグラスの表面で、茶柱がゆらゆらと揺れる。
母をほとんど知らないまま失った、年の離れた弟と妹を不憫に思い、敦は家族の中でも一番に兄妹を大切に育てた。
特に、弟のネムは生まれつき身体が弱く、喘息とアトピー持ちで、小さい頃は度々全身を発疹だらけにして深夜でも泣き叫んだという。
それをずっとあやして、なだめて、薬を塗ってやったり、遊んでやったり、本を読み聞かせてたり寝かしつけたりしたのは、ずっと敦だった。
次第に、弟たちも父や姉よりずっと敦に懐き、特にネムは何でもかんでも敦に甘えてきた。
家にいるときは、いつも。四六時中といっても間違いはなかった。
普段も、休みの日も、友達でなく兄の敦とばかり遊びたがる弟に、家族は皆「お兄ちゃんに甘えすぎだ」と次第に渋い顔を浮かべはじめた。
敦自身もそれは気にかかっていたが、成長すれば、きっと自立するだろうと高をくくっていた。
が。
妹のアコは、女の子らしくおしゃまでおしゃべりになり、今は学校の友達と仲良くしているが、ネムは相変わらず兄に甘えてばかりいた。
学校でも、身体が弱くいじめられっ子で、家に帰るといつも敦にワンワンと泣いて甘えて、家の中では反動でわがまま放題。
時折父が「自分でなんとかしろ」と叱っても、知らんぷりで敦の背中に逃げ隠れてあかんべーをする。
「…僕がクイズの大会出たいって言った時なんか、一晩中わあわあ大騒ぎしてました。
まだ予選にも出てないのに、僕が東京に何日も出かけるなんて嫌だって。
もう予選通過した後の事まで考えて心配してるんですよ?…あんまり泣き叫ぶんで流石に気になって、そのままずっと行けずじまいになってしまって」
「ひでえブラコンだな…」
「家族も、僕の同級生もそう言ってますけど、確かにネムは身体が弱いし、万一喘息の発作が出たり全身にアトピー出たら、と思うと、大学に来たばかりの頃は毎晩心配でした。あの子、お薬とか平気で適当な所にほったらかすし、僕以外が薬塗ると違うそこじゃないって文句ばっかりで…姉さんにワガママ言ってないかな、とか…依頼心とか、そういうのも考えますけど、放っておけなくて…」
「それでよく、県外の大学に進学できたな…弟君、大騒ぎだったんじゃないの?」
「父さんがネムを一喝して、行かせてくださったんです。僕のためでもあるし、ネムのためでもあるからって」
「それは、そう思うわな…」
饅頭を一口かじって、庵は「どこのウチでも色々あるよな」と、空を仰いでポツリと洩らす。
しばらくの間、もそもそと饅頭をほおばり、お茶を啜る音だけが縁側に響く。
お茶とお菓子がなくなったころ、廊下の向こうから「お昼出来ましたよぉ」と、敦の姉が呼ぶ声がした。
はあい、と敦は返事をすると、傍らのお盆に三人の皿を手早く重ねて片付ける。
「新潟の次は、どちらへ行かれるんですか?」
「え…ああ、まだ未定だけど」
そうですか、と敦は空を見上げる。その視線は、どこか遠い。
「旅っていいですね。僕ももう何年か経ったら、どこかへフラっと行きたいな」
また大学始まったら、お土産話でも聞かせてくださいね、と敦は空を仰いだままそう呟いて微笑んだ。
【7月20日午後・弟は先に昼食中・今日の昼はそうめん】
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