父の一声。
*
「おっ…お父さん!」
そう叫んで、母を抱き抱えたまま次の言葉を失っている次男坊に、虎太郎氏はさっきと何ら変わった様子も見せず「お帰りぃ」と自然に手を振り、ポンポンと肩を叩くと息子の腕から妻を抱き上げて、そろっと優しく座らせる。
「ダメじゃない母さん、無理しちゃ。お父さん心配になるじゃない?午後からこないだの集中豪雨で土砂崩れた現場視察で県北行かないといかんのに」
「ごめんなさいお父さん、やっぱり私ダメな妻です」
「そおんな事ないさ。母さん立派にやってるよぉ。なあ聡文、晶?」
「そうですね」と即座に返答した聡文に対し、「ああ」とか「うう」とか顔を白黒させて、思いを巡らせていたであろう父への返答に早速詰まっている晶の姿に、「そんな緊張しないのよ」と逆に困惑した様子で父親は肩をすくめてみせる。
「やあすまないね君たち、朝早くから呼び立ててしまって。今日も暑くなりそうだ。中へおあがんなさいな。無駄にだだっぴろいけどクーラー効くように改築してあるから過ごしやすいと思うが、今なら庭先の縁側で涼むのもいい。あそこは良い風が抜ける。池でエサやりも楽しめるしね。後で水蜜も用意してあるから、しばらく足伸ばしてなさい」
「ああああの本物ですか」
「ええええっと写メ撮っていいっすか」
また違ったベクトルでてんぱっている敦や大輔の質問に、虎太郎氏はゆるりと頷く。
「そうよー。影武者なんかいないんだねこれが。もう一人居たら、わしここでずっと母さんとのんびり過ごすのにねぇ」
「まあ、お父さんったら…」
「だって母さん寂しがってると思ったら、わし仕事が手につかんもの。聡文ともう一人くらい優秀なのがいてくれたら、ねえ母さん」
「全くもってそうですねぇ先生!」
父と母、そして兄の視線の先には、四面楚歌を今正に喰らっている項羽のような顔色をした晶が立ち尽くしていた。
「写真はいいけど、ブログとかホームページとかはダメよ。あそこらへん、色々とそこの秘書さんがうるさくってねえ。わしこれでも昔はそこの僕そっくりのイケメンでヨットハーバーをぶいぶい言わせてたもんなんだがなー。惜しいなー」
指差されてのご指名に晶は顔を伏せたまま、えっと、えっとと口の中で何事かを反芻し続けている。
「という訳で晶君」
「…はっ、あ、あの」
「着いた早々悪いけど、後で奥座敷に来なさいな。喉乾いてるだろうから、冷や水一杯飲んだらすぐね」
さらりと告げた一言が、背筋を凍らせるような響きを含んでいることを晶は聞き逃さなかった。
が、次の瞬間には、じゃあ母さん行こうかなー、とピクニックにでも行くみたいな口ぶりで当の本人は妻を伴って奥へと引っ込んでいった。
残された面々は、それぞれに晶の真っ青な顔色を見ては、動揺と困惑を感じずにはおれなかった。
「晶」
弟が脱ぎ捨てたスニーカーを丁重に揃えて、聡文は家へ上がると晶の強張ったままの背中を強めに叩く。
「観念しな」
「うう…」
結局、またいつものように流されるのか。
父と相対すると言葉はいつも抜け落ちて、その言葉の綻びに容赦なく父は自分の意向を詰め込んでくる。
政治屋になれと。政治の道に進んで、家に永劫縛られろと。
この息が詰まる家に、一生…。
…みんな気付いてないのだろうか。
何故、ここまで息子の僕が父にびびっているかなんて。
父はとぼけたふりが上手すぎるのだ。
それでいて、己の望む言葉を相手から引き出すのが異様な程上手い。職人芸の域を超えていると言っていい。
誰が言ったか「ぬらりひょん」とは言い得て妙だと思う。子供心に、新聞に踊る文句としてはとてもイヤなあだなではあったけど。
それでいて、強気に出れば更に強く揺るぎない言葉でバン、と隙無く跳ね返してくる。お前の一言など吹けば飛ぶような代物だと、身を持って叩き込まれてきた。
あの人が水一杯飲んでこいと言うのは、しばらく飲む暇も与えないよという意味…イコール、怖れていた意思確認の場が設けられているのが見える。
一生、父の、兄の影として生きる道。
父も兄も表だって言わないけど、あれだけ親戚連中に敵視されてる後妻の子の僕が表に立てるはずないんだ。
父さんも兄さんも、母さんも嫌いじゃない、だけど…。
いやだ。
望んでもないのに悪意まみれの世界になんか入りたくない。
政治でやりたい事なんかないのに。
自由になりたいのに。僕は…。
「帯刀!客人を案内してくれ。晶は僕が連れて行く」
「承知」
兄の張りの良い声と、帯刀のドスが利いた重低音で我に帰る。
そっと振り返ると、どうして良いか分からずその場に立ち尽くす友人達の不安げな顔が見えた。
【7月30日・お父さんに帰宅報告・続く】
「おっ…お父さん!」
そう叫んで、母を抱き抱えたまま次の言葉を失っている次男坊に、虎太郎氏はさっきと何ら変わった様子も見せず「お帰りぃ」と自然に手を振り、ポンポンと肩を叩くと息子の腕から妻を抱き上げて、そろっと優しく座らせる。
「ダメじゃない母さん、無理しちゃ。お父さん心配になるじゃない?午後からこないだの集中豪雨で土砂崩れた現場視察で県北行かないといかんのに」
「ごめんなさいお父さん、やっぱり私ダメな妻です」
「そおんな事ないさ。母さん立派にやってるよぉ。なあ聡文、晶?」
「そうですね」と即座に返答した聡文に対し、「ああ」とか「うう」とか顔を白黒させて、思いを巡らせていたであろう父への返答に早速詰まっている晶の姿に、「そんな緊張しないのよ」と逆に困惑した様子で父親は肩をすくめてみせる。
「やあすまないね君たち、朝早くから呼び立ててしまって。今日も暑くなりそうだ。中へおあがんなさいな。無駄にだだっぴろいけどクーラー効くように改築してあるから過ごしやすいと思うが、今なら庭先の縁側で涼むのもいい。あそこは良い風が抜ける。池でエサやりも楽しめるしね。後で水蜜も用意してあるから、しばらく足伸ばしてなさい」
「ああああの本物ですか」
「ええええっと写メ撮っていいっすか」
また違ったベクトルでてんぱっている敦や大輔の質問に、虎太郎氏はゆるりと頷く。
「そうよー。影武者なんかいないんだねこれが。もう一人居たら、わしここでずっと母さんとのんびり過ごすのにねぇ」
「まあ、お父さんったら…」
「だって母さん寂しがってると思ったら、わし仕事が手につかんもの。聡文ともう一人くらい優秀なのがいてくれたら、ねえ母さん」
「全くもってそうですねぇ先生!」
父と母、そして兄の視線の先には、四面楚歌を今正に喰らっている項羽のような顔色をした晶が立ち尽くしていた。
「写真はいいけど、ブログとかホームページとかはダメよ。あそこらへん、色々とそこの秘書さんがうるさくってねえ。わしこれでも昔はそこの僕そっくりのイケメンでヨットハーバーをぶいぶい言わせてたもんなんだがなー。惜しいなー」
指差されてのご指名に晶は顔を伏せたまま、えっと、えっとと口の中で何事かを反芻し続けている。
「という訳で晶君」
「…はっ、あ、あの」
「着いた早々悪いけど、後で奥座敷に来なさいな。喉乾いてるだろうから、冷や水一杯飲んだらすぐね」
さらりと告げた一言が、背筋を凍らせるような響きを含んでいることを晶は聞き逃さなかった。
が、次の瞬間には、じゃあ母さん行こうかなー、とピクニックにでも行くみたいな口ぶりで当の本人は妻を伴って奥へと引っ込んでいった。
残された面々は、それぞれに晶の真っ青な顔色を見ては、動揺と困惑を感じずにはおれなかった。
「晶」
弟が脱ぎ捨てたスニーカーを丁重に揃えて、聡文は家へ上がると晶の強張ったままの背中を強めに叩く。
「観念しな」
「うう…」
結局、またいつものように流されるのか。
父と相対すると言葉はいつも抜け落ちて、その言葉の綻びに容赦なく父は自分の意向を詰め込んでくる。
政治屋になれと。政治の道に進んで、家に永劫縛られろと。
この息が詰まる家に、一生…。
…みんな気付いてないのだろうか。
何故、ここまで息子の僕が父にびびっているかなんて。
父はとぼけたふりが上手すぎるのだ。
それでいて、己の望む言葉を相手から引き出すのが異様な程上手い。職人芸の域を超えていると言っていい。
誰が言ったか「ぬらりひょん」とは言い得て妙だと思う。子供心に、新聞に踊る文句としてはとてもイヤなあだなではあったけど。
それでいて、強気に出れば更に強く揺るぎない言葉でバン、と隙無く跳ね返してくる。お前の一言など吹けば飛ぶような代物だと、身を持って叩き込まれてきた。
あの人が水一杯飲んでこいと言うのは、しばらく飲む暇も与えないよという意味…イコール、怖れていた意思確認の場が設けられているのが見える。
一生、父の、兄の影として生きる道。
父も兄も表だって言わないけど、あれだけ親戚連中に敵視されてる後妻の子の僕が表に立てるはずないんだ。
父さんも兄さんも、母さんも嫌いじゃない、だけど…。
いやだ。
望んでもないのに悪意まみれの世界になんか入りたくない。
政治でやりたい事なんかないのに。
自由になりたいのに。僕は…。
「帯刀!客人を案内してくれ。晶は僕が連れて行く」
「承知」
兄の張りの良い声と、帯刀のドスが利いた重低音で我に帰る。
そっと振り返ると、どうして良いか分からずその場に立ち尽くす友人達の不安げな顔が見えた。
【7月30日・お父さんに帰宅報告・続く】
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