淡く優しい幻。
*
はじまりの記憶は、とても曖昧で、淡いもの。
おじちゃんと、お医者さんが、廊下で話をしているのが聞こえる。
「…それじゃ、悪ぃけど俺は本社に戻るな。後、しっかり頼むぞ」
「ええ、ラジャーっす。…僕も、折を見て帰社する予定です。
しかし…本当に解散するんですか?」
「そうだ。俺一人のクビでどうにかなりゃあいいが…。だが、現場リーダーは俺だ。
たっぷりお灸を据えられてくるさ」
「で、でも…今回の後始末に関しては、僕は成瀬さんの判断で正しかったと思います。第一、本社だって騙すようにして僕らをあの島へと誘導したんですから」
「桐条様は自分が頭が高ぇように思ってるみてえだが、元は自分の尻ぬぐいだぜ?
なのにてめえが大正義みてえな面をするたあ片腹痛えってもんよ。そうだろ?
だから、今回の件で難癖付けるってんならこれで全てにけじめを付ける。
俺らも関係がないって事は無いが、もう禊ぎは充分済ませたつもりだ。
仲間もそろそろしがらみから解放してやりてえし、桐条本社の無茶無謀な要求がこれ以上増えたら本当に死人が出る。今回は俺も悪かったが、それでよく分かった。
もうリーダーにはなれねえよ。
今後あいつらの私欲や研究のために、俺はお前らを死なせたかねえし」
「そう、ですか…寂しいけど、仕方ないかもしれないですね。
何だか、最近の桐条本社は何を考えているのか分からなくなりました。
最初の頃は純粋に事故の後処理に奔走しているようだったのに、今ではまたシャドウに関する情報を理由も教えずに、僕らのような社員やその筋の人間を使ってかき集めようとしている…」
「…お前も気付いたか。堂島が言うに、どうも新総帥の下でも色々利権や派閥絡みのゴタゴタが表面化してるようでな、一枚岩に中々統率出来ずにいるらしい。
今回の一件も、もしかしたら総帥には内密の汚れ仕事だったかも知れん」
「そんな、それでは…」
「ああ。俺達をコマにして、桐条の内部に食い込み良からぬ企みを図っている奴がいる。それを見極めるためにも、一旦戻ってみなけりゃな」
「ここには、もう戻ってこられないのですか?」
「…多分な。尾行されちゃあまずいし、フタバはもう俺と関わらない方がいいだろうし…」
よく意味の分からない、大人の会話。
でも、それでもいっこだけ、わかる事があった。
おじちゃんが帰る。
もうここへは戻ってこない…。
どうしよう。どうしよう。
おじちゃん以外、ぼくわかんない。
おいしゃさんも、かんごふさんも、こわい。
こわい。
ひとり…こわいよ。
「おじちゃん!」
よろよろと部屋の外に出て、自分でも驚くほど大きな声で、あの人を呼んでいた。
「ふ、フタバ君?」
最近ずっと側にいてくれたせいなのか、お医者さんの顔が榎本さんに見える。
「フタバ…!どうした、横になって…」
その時はずっと立ったり歩いたりしてなかったせいで、足の膝も筋肉もガチガチでかくかくしてたけど、頑張って歩いた。
よたよた歩いて、みっともなく転びかけて、その腕を抱いて支えられる。
「フタバ…どうした、怖い夢でも見たのか?」
ううん、と僕は首を横に振る。
「おじちゃん…かえるの?」
「ん?ああ…聞こえてたのか。ちょいと、仕事があってな。これから帰るんだ」
「やだ…やだやだやだ!おじちゃんといっしょがいい!ついてく!」
思いが吹き出す。
いつも言わないように、言わないように、ずっと自分を抑えて埋めてきた言葉。
暖かい腕。大きな肩。
思わず抱きつくと、ほのかにタバコの匂いがした。
「馬鹿言えよ、お前まだ熱があるんだぞ?それに具合だって良くならないし…」
「やだ…やだ…おじちゃんいなくなるのやだ…だって、だって…ひとりぼっち…。
ひとりぼっちはもうやだ!やだ!…いっしょがいい、ずっといっしょがいーい…」
ぽたぽた、涙がとめどなく頬を伝う。
親の死を聞かされても流れなかったのに、その時の僕は、声が枯れるまで大声で泣いていた。
あの人は、困ったような笑みを浮かべて、ずっと僕を抱きしめていてくれた。
僕はずっと、離すまいとしっかりコートを握りしめてその大きな体にしがみついていた。
「…分かったよ。だが、一旦本社には戻らなきゃならん。でも、必ず帰ってくる。約束だ」
「…ほんと?………かえ…て……くる…?」
「ああ、男と男の約束。これは絶対なんだぜ」
「………」
不安げな僕に、歯を見せてにかっと笑う。
その笑顔は、とっても格好良かった。
「戻ったら、退院まで側にいてやるよ。それから後は…そっから考えよう。な?」
「う……うん!やくそくだよ!ぜったい、ぜったいだからね…!」
約束通り、あの人は戻ってきてくれた。
クマのぬいぐるみと、高そうなお菓子と、余所行きの洋服を抱えて。
でも、何より嬉しかった事。
「おじちゃん」が、「おとうさん」になった事。
側に、誰かがいてくれる。
そう思うだけで、僕の心の隅に居た得体の知れない恐怖は消えていった。
「俺さあ、家事とか炊事とか全然出来ないけど…それでもいいか?」
「そうなの?じゃあぼくおてつだいする!皮むきとか、おやさい水であらったりとかできるよ!」
「おおそうか!頼もしい、期待してるぞ」
大きくて暖かい掌で顔や頭をなでてもらえると、それだけで世界は優しく包み込む光へと変わっていった。
優しい夢。暖かな記憶…。
お義父さん。
僕、貴方に何をしてあげられたのだろう。
結局何も返せないまま、よりかかってばかりで、僕は…。
はじまりの記憶は、とても曖昧で、淡いもの。
おじちゃんと、お医者さんが、廊下で話をしているのが聞こえる。
「…それじゃ、悪ぃけど俺は本社に戻るな。後、しっかり頼むぞ」
「ええ、ラジャーっす。…僕も、折を見て帰社する予定です。
しかし…本当に解散するんですか?」
「そうだ。俺一人のクビでどうにかなりゃあいいが…。だが、現場リーダーは俺だ。
たっぷりお灸を据えられてくるさ」
「で、でも…今回の後始末に関しては、僕は成瀬さんの判断で正しかったと思います。第一、本社だって騙すようにして僕らをあの島へと誘導したんですから」
「桐条様は自分が頭が高ぇように思ってるみてえだが、元は自分の尻ぬぐいだぜ?
なのにてめえが大正義みてえな面をするたあ片腹痛えってもんよ。そうだろ?
だから、今回の件で難癖付けるってんならこれで全てにけじめを付ける。
俺らも関係がないって事は無いが、もう禊ぎは充分済ませたつもりだ。
仲間もそろそろしがらみから解放してやりてえし、桐条本社の無茶無謀な要求がこれ以上増えたら本当に死人が出る。今回は俺も悪かったが、それでよく分かった。
もうリーダーにはなれねえよ。
今後あいつらの私欲や研究のために、俺はお前らを死なせたかねえし」
「そう、ですか…寂しいけど、仕方ないかもしれないですね。
何だか、最近の桐条本社は何を考えているのか分からなくなりました。
最初の頃は純粋に事故の後処理に奔走しているようだったのに、今ではまたシャドウに関する情報を理由も教えずに、僕らのような社員やその筋の人間を使ってかき集めようとしている…」
「…お前も気付いたか。堂島が言うに、どうも新総帥の下でも色々利権や派閥絡みのゴタゴタが表面化してるようでな、一枚岩に中々統率出来ずにいるらしい。
今回の一件も、もしかしたら総帥には内密の汚れ仕事だったかも知れん」
「そんな、それでは…」
「ああ。俺達をコマにして、桐条の内部に食い込み良からぬ企みを図っている奴がいる。それを見極めるためにも、一旦戻ってみなけりゃな」
「ここには、もう戻ってこられないのですか?」
「…多分な。尾行されちゃあまずいし、フタバはもう俺と関わらない方がいいだろうし…」
よく意味の分からない、大人の会話。
でも、それでもいっこだけ、わかる事があった。
おじちゃんが帰る。
もうここへは戻ってこない…。
どうしよう。どうしよう。
おじちゃん以外、ぼくわかんない。
おいしゃさんも、かんごふさんも、こわい。
こわい。
ひとり…こわいよ。
「おじちゃん!」
よろよろと部屋の外に出て、自分でも驚くほど大きな声で、あの人を呼んでいた。
「ふ、フタバ君?」
最近ずっと側にいてくれたせいなのか、お医者さんの顔が榎本さんに見える。
「フタバ…!どうした、横になって…」
その時はずっと立ったり歩いたりしてなかったせいで、足の膝も筋肉もガチガチでかくかくしてたけど、頑張って歩いた。
よたよた歩いて、みっともなく転びかけて、その腕を抱いて支えられる。
「フタバ…どうした、怖い夢でも見たのか?」
ううん、と僕は首を横に振る。
「おじちゃん…かえるの?」
「ん?ああ…聞こえてたのか。ちょいと、仕事があってな。これから帰るんだ」
「やだ…やだやだやだ!おじちゃんといっしょがいい!ついてく!」
思いが吹き出す。
いつも言わないように、言わないように、ずっと自分を抑えて埋めてきた言葉。
暖かい腕。大きな肩。
思わず抱きつくと、ほのかにタバコの匂いがした。
「馬鹿言えよ、お前まだ熱があるんだぞ?それに具合だって良くならないし…」
「やだ…やだ…おじちゃんいなくなるのやだ…だって、だって…ひとりぼっち…。
ひとりぼっちはもうやだ!やだ!…いっしょがいい、ずっといっしょがいーい…」
ぽたぽた、涙がとめどなく頬を伝う。
親の死を聞かされても流れなかったのに、その時の僕は、声が枯れるまで大声で泣いていた。
あの人は、困ったような笑みを浮かべて、ずっと僕を抱きしめていてくれた。
僕はずっと、離すまいとしっかりコートを握りしめてその大きな体にしがみついていた。
「…分かったよ。だが、一旦本社には戻らなきゃならん。でも、必ず帰ってくる。約束だ」
「…ほんと?………かえ…て……くる…?」
「ああ、男と男の約束。これは絶対なんだぜ」
「………」
不安げな僕に、歯を見せてにかっと笑う。
その笑顔は、とっても格好良かった。
「戻ったら、退院まで側にいてやるよ。それから後は…そっから考えよう。な?」
「う……うん!やくそくだよ!ぜったい、ぜったいだからね…!」
約束通り、あの人は戻ってきてくれた。
クマのぬいぐるみと、高そうなお菓子と、余所行きの洋服を抱えて。
でも、何より嬉しかった事。
「おじちゃん」が、「おとうさん」になった事。
側に、誰かがいてくれる。
そう思うだけで、僕の心の隅に居た得体の知れない恐怖は消えていった。
「俺さあ、家事とか炊事とか全然出来ないけど…それでもいいか?」
「そうなの?じゃあぼくおてつだいする!皮むきとか、おやさい水であらったりとかできるよ!」
「おおそうか!頼もしい、期待してるぞ」
大きくて暖かい掌で顔や頭をなでてもらえると、それだけで世界は優しく包み込む光へと変わっていった。
優しい夢。暖かな記憶…。
お義父さん。
僕、貴方に何をしてあげられたのだろう。
結局何も返せないまま、よりかかってばかりで、僕は…。
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