まどろむ。
*
小さい頃、小学校で新しい学年が始まる度に、家のテレビは夜七時から九時まで父に占拠された。
理由は単純で、オールナイトナイター…プロ野球中継があるからだ。
その間、他のバラエティやニュースは一切見られなかった。万一CM中にチャンネルを一瞬変えただけでも、父は不機嫌になり煙草を揉み消したり、卓袱台を拳で叩きつけては苛立ちをすぐさま露わにして見せた。
言わずとも気付け、というスタンスはずっと変わらなかった。
それを傲慢とも思わず、また自覚もせず、家族に対する当然の接し方だと、きっとあの人は思っていたんだと思う。
ナイター中継を見るときは、いつも決まって半神ジャガーズの試合。
父にとって、半神ジャガーズという球団は特別だった。
ドラフト前まで、ずっと目をかけられ何度も足繁く通ってきたスカウトが、ジャガーズの所属だったという。
地元でも熱狂的なファンが多い球団だけに、父はずっとあの縦縞のユニフォームに思い入れがあったようだ。
だけど。
「庵、父ちゃんまたおらびょうるから、居間にはいかんと上に上がって本でも読みょうり」(おらぶ=叫ぶの方言)
なにやってるんだ、早くこのクソ先発下げないか、と居間で叫んでいる父の罵声を背にして、母がもはや達観した様で台所に立ちつまみを作りながらため息をつく姿を何度も見た。大抵は鰯や野菜の練り天、ときどき鶏の唐揚げ。
万年Bクラスでセリーグのお荷物と言われた球団の応援は、ほぼ毎回が負け試合の中継だった。
「監督はもう辞めるべきだな…あいつは六回でもう降ろすべきだったのを、何で七回まで引っ張るんだ…早くアレを使わないから…今更敗戦処理か…」
ブツブツと、酒臭い息を吐き出しながら父がテレビと問答をしている。
既に、一日三本までと母と何度も決めていた分量の缶数を越えて飲んでいるのが分かる。
卓上に並んでいるのは、その年の七月十五日に届いたビールのギフトに入っていた生ビールセット2ダースセット350ミリリットルの缶。普段は手を出さない、ちょっと高い銘柄のゴールドに黒ラインの缶が五本も既に列を為している。母が止めないのを見ると、今日は大敗だったのだろう。もう秋風が聞こえてくるようなシーズン終盤。今年も夏場のデスロード云々は関係なく、順位はいつもの定位置…下から数えて一位、の場所に収まっていた。
そのテレビ中継を凝視し鬼のような形相となっているであろう父の背中を、見つからないように、見とがめられないように覗いては、いつも思っていた。
お酒に逃げる大人にならないと。なりたくないと。
二十歳になった直後、飲み会に誘われて、物は試しと痛飲し…いや、したらしい、としか言えない。
飲酒した前後二時間の記憶がすっぽりと抜け落ちて、気がついたら自室のベッドの上だった。
混乱せずに済んだのは、そばで晶が卵粥を作って様子見してくれていたからだ。
簡単な説明を聞いて、話をする誰かがいるというだけでホッとした。記憶の補完が出来るから。
一人でいたら、半日くらい飲酒で無くした記憶を必死に脳内検索し続けて部屋の片隅でうずくまっていたかも知れない。
不安になるのだ。
覚えていて当然なのに、覚えていない。
その事実が、耐え難いほどの苦痛を感じる。
分かるはずなのにわからない。読めるはずなのに読めない。
知っていて当然なのに、解が引き出せない。
他の人はそうであっても許されるし、俺にしたって別に罰せられる訳でもない。
わかっているのだけど。
俺はそうであってはならない。
もはや強迫観念じみてるが、染みついた習性が俺に検索を命じる。
早く気付け、何故分からない、ここだここだ解はここだと、見えないハンマーでガンガン頭を叩かれているような錯覚と存在するはずのない重圧感で息することさえ苦しくなってくる。
「わからない」と「覚えてない」は、俺にとって禁忌だ。
もし万一そうなったら、俺は価値がなくなる。
世界に敷かれた見えざる掟で、既に生まれる前からそのように決定されているように感じるのか、俺はそうなるのが恐ろしくてならなかった。
それに加え、もしも飲酒に慣れて記憶を失う自分を許容してしまったら、俺は確実に酩酊に溺れていく。
父のあの惨めな背中を思う度、現実から逃げる己の姿を夢想し、重ね合わせて、その惨めな想像図の解=反論しない他者に当たり散らす、臆病で卑小な男の姿に傷つく。
思い出したくない、小さな煤けた背中の輪郭が、まぶたの裏でブラウン管越しに俺を責める。
俺は役立たずになった社会のお荷物だ。だがお前も、あの投手も、格好ばかりの四番も、みんな役立たずだ。そして、やっと生まれた俺の息子も全然野球のできないゴミクズだと。
何でだと。俺の息子なのに、と。
父は立派な人だったんだ。
酒に逃げたり、現実に逃げたり、遂に見いだせなかった砂粒よりも僅かな自分の可能性に背いて全力で逃げだしたりしなかったら。
俺に酷いこと言ってたのも、辛かったからなんだ。
そう、何度自分に言い聞かせて、布団の中で身体を小さく丸めて泣いただろう。
だからこそ、未だに俺は膨大な記憶の迷路から抜け出せずにいた。
まぶたを閉じても重い鈍痛が消えないように、世界のあらゆる「解」は、俺の目の前にいつも否応無しに浮かんでいる。
それを拒否し、全ての解が姿を消した世界を望んでも、実際そうなった時に己がどれほど取り乱すか、イヤというほど知っている。実際、幾度かライブラリが機能しなくなったとき、俺は己にどんな価値も見いだせなくなった。
俺の価値。
人よりも少し速く計算が出来て、随分と多くの解を導き出せる、だけどそうなる仕組みの回路がさっぱり分からない脳。
人よりも多く記憶し、人より早くアウトプットが出来、また高速インプットも可能。
だが、それもまた「どうしてそんなに覚えてられて、なおかつ計算も出来るの?」という問いの解は導き出せない。
分かるのは端的な理由だけ。でも、それさえどうしようもない現実。
考えなければ良いのに、一人になると最近とみに思案しては無駄に疲労を重ねる。
メカニズムが分からなくても、使えればいい。テレビはリモコンで起動する、と分かっていれば視聴出来るのと同じ。
テレビの中をばらして部品の一つ一つまで丹念に網羅し、なおかつ一度ばらしてもう一度組み立てられる人がどれだけいるものか。いやそれ以前に、そうしなくたって、そうできなくたって、別に強制もテストもされない。
思考する意味はない。
だが思わなかったことはなかった。
俺の希有で不可思議な脳の作用に、一体何の価値があるのだろう。
パソコンで代用できる能力に。
いずれケータイでもそれなりに出来るようになるであろう、「永久記憶装置」。
俺は、生身であること以外大差ない。いずれ追い抜かされるのかな?
それとも、いつまでも機械に対抗出来る生身として珍重されるだろうか。
遺伝子異常の白いカエルやオタマジャクシのように、よく目立つ無害な異物として。
それが己の生の意味なら、涙も出やしない。
ならばせめて、己が求める未来を思い描く。
彼女が、そっと出口から手をさしのべてくれる。
そんな夢を思い描きながら、まぶたを閉じる。
眠りに落ちるまでの間の黒一色の光景は、束の間、俺に安堵をくれる。
何もないなら、何も考えなくていいから。だけど。
何もなくなったら、俺はきっと俺でなくなる。
それが、俺は何よりも怖かった。
【8月14日昼・まだ頭が痛い・続く】
小さい頃、小学校で新しい学年が始まる度に、家のテレビは夜七時から九時まで父に占拠された。
理由は単純で、オールナイトナイター…プロ野球中継があるからだ。
その間、他のバラエティやニュースは一切見られなかった。万一CM中にチャンネルを一瞬変えただけでも、父は不機嫌になり煙草を揉み消したり、卓袱台を拳で叩きつけては苛立ちをすぐさま露わにして見せた。
言わずとも気付け、というスタンスはずっと変わらなかった。
それを傲慢とも思わず、また自覚もせず、家族に対する当然の接し方だと、きっとあの人は思っていたんだと思う。
ナイター中継を見るときは、いつも決まって半神ジャガーズの試合。
父にとって、半神ジャガーズという球団は特別だった。
ドラフト前まで、ずっと目をかけられ何度も足繁く通ってきたスカウトが、ジャガーズの所属だったという。
地元でも熱狂的なファンが多い球団だけに、父はずっとあの縦縞のユニフォームに思い入れがあったようだ。
だけど。
「庵、父ちゃんまたおらびょうるから、居間にはいかんと上に上がって本でも読みょうり」(おらぶ=叫ぶの方言)
なにやってるんだ、早くこのクソ先発下げないか、と居間で叫んでいる父の罵声を背にして、母がもはや達観した様で台所に立ちつまみを作りながらため息をつく姿を何度も見た。大抵は鰯や野菜の練り天、ときどき鶏の唐揚げ。
万年Bクラスでセリーグのお荷物と言われた球団の応援は、ほぼ毎回が負け試合の中継だった。
「監督はもう辞めるべきだな…あいつは六回でもう降ろすべきだったのを、何で七回まで引っ張るんだ…早くアレを使わないから…今更敗戦処理か…」
ブツブツと、酒臭い息を吐き出しながら父がテレビと問答をしている。
既に、一日三本までと母と何度も決めていた分量の缶数を越えて飲んでいるのが分かる。
卓上に並んでいるのは、その年の七月十五日に届いたビールのギフトに入っていた生ビールセット2ダースセット350ミリリットルの缶。普段は手を出さない、ちょっと高い銘柄のゴールドに黒ラインの缶が五本も既に列を為している。母が止めないのを見ると、今日は大敗だったのだろう。もう秋風が聞こえてくるようなシーズン終盤。今年も夏場のデスロード云々は関係なく、順位はいつもの定位置…下から数えて一位、の場所に収まっていた。
そのテレビ中継を凝視し鬼のような形相となっているであろう父の背中を、見つからないように、見とがめられないように覗いては、いつも思っていた。
お酒に逃げる大人にならないと。なりたくないと。
二十歳になった直後、飲み会に誘われて、物は試しと痛飲し…いや、したらしい、としか言えない。
飲酒した前後二時間の記憶がすっぽりと抜け落ちて、気がついたら自室のベッドの上だった。
混乱せずに済んだのは、そばで晶が卵粥を作って様子見してくれていたからだ。
簡単な説明を聞いて、話をする誰かがいるというだけでホッとした。記憶の補完が出来るから。
一人でいたら、半日くらい飲酒で無くした記憶を必死に脳内検索し続けて部屋の片隅でうずくまっていたかも知れない。
不安になるのだ。
覚えていて当然なのに、覚えていない。
その事実が、耐え難いほどの苦痛を感じる。
分かるはずなのにわからない。読めるはずなのに読めない。
知っていて当然なのに、解が引き出せない。
他の人はそうであっても許されるし、俺にしたって別に罰せられる訳でもない。
わかっているのだけど。
俺はそうであってはならない。
もはや強迫観念じみてるが、染みついた習性が俺に検索を命じる。
早く気付け、何故分からない、ここだここだ解はここだと、見えないハンマーでガンガン頭を叩かれているような錯覚と存在するはずのない重圧感で息することさえ苦しくなってくる。
「わからない」と「覚えてない」は、俺にとって禁忌だ。
もし万一そうなったら、俺は価値がなくなる。
世界に敷かれた見えざる掟で、既に生まれる前からそのように決定されているように感じるのか、俺はそうなるのが恐ろしくてならなかった。
それに加え、もしも飲酒に慣れて記憶を失う自分を許容してしまったら、俺は確実に酩酊に溺れていく。
父のあの惨めな背中を思う度、現実から逃げる己の姿を夢想し、重ね合わせて、その惨めな想像図の解=反論しない他者に当たり散らす、臆病で卑小な男の姿に傷つく。
思い出したくない、小さな煤けた背中の輪郭が、まぶたの裏でブラウン管越しに俺を責める。
俺は役立たずになった社会のお荷物だ。だがお前も、あの投手も、格好ばかりの四番も、みんな役立たずだ。そして、やっと生まれた俺の息子も全然野球のできないゴミクズだと。
何でだと。俺の息子なのに、と。
父は立派な人だったんだ。
酒に逃げたり、現実に逃げたり、遂に見いだせなかった砂粒よりも僅かな自分の可能性に背いて全力で逃げだしたりしなかったら。
俺に酷いこと言ってたのも、辛かったからなんだ。
そう、何度自分に言い聞かせて、布団の中で身体を小さく丸めて泣いただろう。
だからこそ、未だに俺は膨大な記憶の迷路から抜け出せずにいた。
まぶたを閉じても重い鈍痛が消えないように、世界のあらゆる「解」は、俺の目の前にいつも否応無しに浮かんでいる。
それを拒否し、全ての解が姿を消した世界を望んでも、実際そうなった時に己がどれほど取り乱すか、イヤというほど知っている。実際、幾度かライブラリが機能しなくなったとき、俺は己にどんな価値も見いだせなくなった。
俺の価値。
人よりも少し速く計算が出来て、随分と多くの解を導き出せる、だけどそうなる仕組みの回路がさっぱり分からない脳。
人よりも多く記憶し、人より早くアウトプットが出来、また高速インプットも可能。
だが、それもまた「どうしてそんなに覚えてられて、なおかつ計算も出来るの?」という問いの解は導き出せない。
分かるのは端的な理由だけ。でも、それさえどうしようもない現実。
考えなければ良いのに、一人になると最近とみに思案しては無駄に疲労を重ねる。
メカニズムが分からなくても、使えればいい。テレビはリモコンで起動する、と分かっていれば視聴出来るのと同じ。
テレビの中をばらして部品の一つ一つまで丹念に網羅し、なおかつ一度ばらしてもう一度組み立てられる人がどれだけいるものか。いやそれ以前に、そうしなくたって、そうできなくたって、別に強制もテストもされない。
思考する意味はない。
だが思わなかったことはなかった。
俺の希有で不可思議な脳の作用に、一体何の価値があるのだろう。
パソコンで代用できる能力に。
いずれケータイでもそれなりに出来るようになるであろう、「永久記憶装置」。
俺は、生身であること以外大差ない。いずれ追い抜かされるのかな?
それとも、いつまでも機械に対抗出来る生身として珍重されるだろうか。
遺伝子異常の白いカエルやオタマジャクシのように、よく目立つ無害な異物として。
それが己の生の意味なら、涙も出やしない。
ならばせめて、己が求める未来を思い描く。
彼女が、そっと出口から手をさしのべてくれる。
そんな夢を思い描きながら、まぶたを閉じる。
眠りに落ちるまでの間の黒一色の光景は、束の間、俺に安堵をくれる。
何もないなら、何も考えなくていいから。だけど。
何もなくなったら、俺はきっと俺でなくなる。
それが、俺は何よりも怖かった。
【8月14日昼・まだ頭が痛い・続く】
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