星空の下で。
*
晶が去って後、入れ違いにやってきたのは昨日出張で不在だったネーデルの支配人。
昨日の営業部長以上に、何度も見舞いと御礼を言われた。
曰く、昨日の大会はここ数年で一番の集客となったそうでネットでの反響も上々、とりわけ偶然日程の重なった修学旅行生やお盆帰省の県外客からの反響がよろしかったようで、出来れば来年もまたイベントを仕切って欲しいなどと笑顔しきりの頼みは固辞したものの、またいつでも遊びに来て欲しいと嬉しそうに握手を求められた時には、やはり無自覚ながら背負っていた重石が取れたようで自然と笑みがこぼれた。
この地元出身だという支配人も悪く言えばアバウトなのだが、ぽっちゃりとした笑顔は陽気で憎めない。
営業部長にはいささか悪い事をしたかなと今になって反省するが、それもイベントが成功に終わったから思えるのだ。
一時期は腹の中で憤怒が攪拌するほどに煮えていたのも事実で、俺も調子の良いことだと庵は自嘲する。
どこも観光地は経営がしんどいだろうから、頑張ってほしいなと思いつつ支配人を見送った後、外の空気を吸いたくなって一階ロビーに降りる。
「庵さん」
彼女に呼び止められたのは、エントランスのすぐそばだった。
*
「散歩?」
「と言いますか、夕涼みですね」
潮風がほどよく流れ込むホテルの中庭で、たわいない会話を交わす。
ご一緒してもいいですか、と訊かれて断る理由もなく、夕涼みと称するには生ぬるいくらいの熱帯夜に、庵は杏奈と二人、肩を並べて夜の庭園散策に出歩いていた。
親友の新彼女と言えど、こちらも相手もちゃんと恋人がいる状態なので、むしろ気楽でいい。加えて彼女は隣に居ても肩を張るような空気にならなくていい。気遣いも距離感もすぐに察してもらえるのは、庵にとってはとても有難いことだった。
「ホテルの中の方が涼しくない?」
率直に問うと、「空調効き過ぎてません?」と逆に問い返されて「確かに」と苦笑する。
「私、あんまり冷えすぎるの苦手で。東京の冬もあまり出歩くのは好きじゃないんです」
「前に東京で過ごしたことが?」
「小さい頃から下宿先のおじさまの家にはちょくちょく遊びに行ってたんです。でも、長崎と比べると足先からの冷えが段違いに辛くて。同じアスファルトの道でも違うものなんですかね」
LEDのランタンに照らされたレンガ道を歩きつつ、なので今から今年の冬が怖いんです、と杏奈が珍しく冗談めかして眉を潜めて見せる。
「杏奈さん、今日明るくない?」
「? そうですか?」
「うん、何かいい事あったかなーってね」
様子を見ての素直な感想だったのだが、杏奈はふと押し黙ると立ち止まって空を見上げた。
「正直、とても驚きました」
「晶のこと?」
「はい。だってゴンドラの上で『仕事中にこんなこと言うのも』なんて切り出すからどうしたのかと思って。お化粧崩れておかしくなってるのかな、とかドレスほつれてるかしらと思ったら」
「嬉しいサプライズ、と」
おめでとー、と口パクででも囁こうかなと思ったその時。
「嬉しい、のかなあ」
杏奈は視線を星空に向けたまま、ぽつりとそう呟いた。
その表情は、普段と変わらない。変わらないが、発した言葉はどこか乾いている。
頭上には星空。高い空の上で輝く幾千の星の瞬き。
その一粒が発したかのような、遠い声。
庵がぽかんとなっているのを察したのか、杏奈はおどけた笑顔で「誤解しないでくださいね」と手を振る。
「私、男性とお付き合いするの、実は初めてでして」
「えっ!?」
「いつも曙ちゃんが守ってくれてたのと、私そういうのがどうも苦手で。それに女子校卒で女子大ですし」
「えっちょっいや…えー凄い意外な…」
「彼もそう言ってました」
だろうなぁ、と庵は困ったように頭を振って杏奈の見上げた星空を仰ぐ。
今日は抜けるような濃紺に、星の輝きがくっきりと浮かんでいる。ホテルや施設の照明がもう少し穏やかなら、きっと天体観測にうってつけの夜空だったろう。
これは俺がすんなり「散歩?付き合うよ」じゃなくて、面倒でも晶にメールして仲人してやるべきだったかななんて反省していたら、顔を降ろした瞬間に隣の杏奈と目が合う。
素のままのぽけっとした彼女の視線を捉えて、何故かどきっとした。
美人の不可抗力とはいえ、不覚である。
だが、それとは別に普段の微笑みをたたえた淑女ではない、等身大の彼女と目が合ったように思った。
思えば、杏奈もお嬢様育ちの宿命なのか、いつも清楚な雰囲気を崩さない。
いや、維持してると形容して良いと思う。
翻って思い起こせば、それはいつも他人の視線を気にして生きている証拠なのか。
お互いに窮屈な行き方してるもんだ、と、庵は奇妙な共通点の発見にまたも苦笑する。
「幸せになりたいな」
「えっ」
「人に気遣い過ぎると、しんどくなるよね」
不意討ちだったようで、杏奈の頬が朱に染まる。
「私、無理してるように見えます?」
「いや、普段は別に。だけど、さっき顔見たら素だったから」
「ちょっと、疲れてるのかも」
「休まなくていいの?」
「平気です。それに、できれば今ここにいる間に、庵さんに御礼が言いたかったんです」
そうしないと安心して帰れない気がして、と杏奈は続ける。
「一時はどうなるかと思ってました。私の勘違いでたくさんご迷惑をおかけして、どうしようって思ってて…今回は本当に有り難うございました。具合も良くなられたみたいで、とてもホッとしました」
「偏頭痛は持病だから。気に病むことないよ」
「でもご無理が過ぎるとすぐに頭痛に跳ね返ってくると晶さんが言われてましたよ?」
あいつとは付き合い長いから、と庵は照れくさそうに明後日の方へ言い返す。
「あいつ良い奴だろ?世話焼きだし。だから絶対一緒に居たら、幸せになれるよ、杏奈さん。」
「あっ…はい」
「俺も、ののちゃんとまったり幸せになるよ」
「…はい」
「あいつの事で何か分からないことあったら、何でも聞いてな」
「もし」
「?…もし?」
僅かな沈黙の後、杏奈は「やっぱりいいかな」と頭を振って微笑んだ。
「お散歩、付き合ってくださって有り難うございました」
「いえいえなんの。ではホテルまでエスコートさせていただきますお」
そっと彼女の手を取ると、「オバケ出てきたらおっかないしね」と、そのまま手を繋いで歩く。
彼女は笑って「遠足みたいですね」とだけ答えた。その手も声も、とても近しく温かかった。
「あ、ナンパ師発見」
ホテルの出入り口に戻ると、晶がコミカルに顔をしかめて見せた。腰に手を当て、まるで門番だ。
「誰がナンパ師だよっての」
とぼけるなっての、と笑顔でのしかかってくる友人をよそに、杏奈は「では、お休みなさい」とくすぐったそうな笑みを隠さない。変なことしてない?と聞こえみよがしに肩に腕を回して頬を引っ張る晶に連れ込まれるように、彼女に手を振ってそのまま別れる。早朝には、もう彼女は佐世保へ向かう車中の人だ。九月まであの笑顔もお預けとなる。
別れる一瞬、自動ドア越しに彼女が何か言いかけたように見えたが、その時の問いかけは遂に分からずじまいだった。
【8月14日夜・夏夜のひととき・晶とじゃれる・その頃敦と夏彦は熟睡・続く】
晶が去って後、入れ違いにやってきたのは昨日出張で不在だったネーデルの支配人。
昨日の営業部長以上に、何度も見舞いと御礼を言われた。
曰く、昨日の大会はここ数年で一番の集客となったそうでネットでの反響も上々、とりわけ偶然日程の重なった修学旅行生やお盆帰省の県外客からの反響がよろしかったようで、出来れば来年もまたイベントを仕切って欲しいなどと笑顔しきりの頼みは固辞したものの、またいつでも遊びに来て欲しいと嬉しそうに握手を求められた時には、やはり無自覚ながら背負っていた重石が取れたようで自然と笑みがこぼれた。
この地元出身だという支配人も悪く言えばアバウトなのだが、ぽっちゃりとした笑顔は陽気で憎めない。
営業部長にはいささか悪い事をしたかなと今になって反省するが、それもイベントが成功に終わったから思えるのだ。
一時期は腹の中で憤怒が攪拌するほどに煮えていたのも事実で、俺も調子の良いことだと庵は自嘲する。
どこも観光地は経営がしんどいだろうから、頑張ってほしいなと思いつつ支配人を見送った後、外の空気を吸いたくなって一階ロビーに降りる。
「庵さん」
彼女に呼び止められたのは、エントランスのすぐそばだった。
*
「散歩?」
「と言いますか、夕涼みですね」
潮風がほどよく流れ込むホテルの中庭で、たわいない会話を交わす。
ご一緒してもいいですか、と訊かれて断る理由もなく、夕涼みと称するには生ぬるいくらいの熱帯夜に、庵は杏奈と二人、肩を並べて夜の庭園散策に出歩いていた。
親友の新彼女と言えど、こちらも相手もちゃんと恋人がいる状態なので、むしろ気楽でいい。加えて彼女は隣に居ても肩を張るような空気にならなくていい。気遣いも距離感もすぐに察してもらえるのは、庵にとってはとても有難いことだった。
「ホテルの中の方が涼しくない?」
率直に問うと、「空調効き過ぎてません?」と逆に問い返されて「確かに」と苦笑する。
「私、あんまり冷えすぎるの苦手で。東京の冬もあまり出歩くのは好きじゃないんです」
「前に東京で過ごしたことが?」
「小さい頃から下宿先のおじさまの家にはちょくちょく遊びに行ってたんです。でも、長崎と比べると足先からの冷えが段違いに辛くて。同じアスファルトの道でも違うものなんですかね」
LEDのランタンに照らされたレンガ道を歩きつつ、なので今から今年の冬が怖いんです、と杏奈が珍しく冗談めかして眉を潜めて見せる。
「杏奈さん、今日明るくない?」
「? そうですか?」
「うん、何かいい事あったかなーってね」
様子を見ての素直な感想だったのだが、杏奈はふと押し黙ると立ち止まって空を見上げた。
「正直、とても驚きました」
「晶のこと?」
「はい。だってゴンドラの上で『仕事中にこんなこと言うのも』なんて切り出すからどうしたのかと思って。お化粧崩れておかしくなってるのかな、とかドレスほつれてるかしらと思ったら」
「嬉しいサプライズ、と」
おめでとー、と口パクででも囁こうかなと思ったその時。
「嬉しい、のかなあ」
杏奈は視線を星空に向けたまま、ぽつりとそう呟いた。
その表情は、普段と変わらない。変わらないが、発した言葉はどこか乾いている。
頭上には星空。高い空の上で輝く幾千の星の瞬き。
その一粒が発したかのような、遠い声。
庵がぽかんとなっているのを察したのか、杏奈はおどけた笑顔で「誤解しないでくださいね」と手を振る。
「私、男性とお付き合いするの、実は初めてでして」
「えっ!?」
「いつも曙ちゃんが守ってくれてたのと、私そういうのがどうも苦手で。それに女子校卒で女子大ですし」
「えっちょっいや…えー凄い意外な…」
「彼もそう言ってました」
だろうなぁ、と庵は困ったように頭を振って杏奈の見上げた星空を仰ぐ。
今日は抜けるような濃紺に、星の輝きがくっきりと浮かんでいる。ホテルや施設の照明がもう少し穏やかなら、きっと天体観測にうってつけの夜空だったろう。
これは俺がすんなり「散歩?付き合うよ」じゃなくて、面倒でも晶にメールして仲人してやるべきだったかななんて反省していたら、顔を降ろした瞬間に隣の杏奈と目が合う。
素のままのぽけっとした彼女の視線を捉えて、何故かどきっとした。
美人の不可抗力とはいえ、不覚である。
だが、それとは別に普段の微笑みをたたえた淑女ではない、等身大の彼女と目が合ったように思った。
思えば、杏奈もお嬢様育ちの宿命なのか、いつも清楚な雰囲気を崩さない。
いや、維持してると形容して良いと思う。
翻って思い起こせば、それはいつも他人の視線を気にして生きている証拠なのか。
お互いに窮屈な行き方してるもんだ、と、庵は奇妙な共通点の発見にまたも苦笑する。
「幸せになりたいな」
「えっ」
「人に気遣い過ぎると、しんどくなるよね」
不意討ちだったようで、杏奈の頬が朱に染まる。
「私、無理してるように見えます?」
「いや、普段は別に。だけど、さっき顔見たら素だったから」
「ちょっと、疲れてるのかも」
「休まなくていいの?」
「平気です。それに、できれば今ここにいる間に、庵さんに御礼が言いたかったんです」
そうしないと安心して帰れない気がして、と杏奈は続ける。
「一時はどうなるかと思ってました。私の勘違いでたくさんご迷惑をおかけして、どうしようって思ってて…今回は本当に有り難うございました。具合も良くなられたみたいで、とてもホッとしました」
「偏頭痛は持病だから。気に病むことないよ」
「でもご無理が過ぎるとすぐに頭痛に跳ね返ってくると晶さんが言われてましたよ?」
あいつとは付き合い長いから、と庵は照れくさそうに明後日の方へ言い返す。
「あいつ良い奴だろ?世話焼きだし。だから絶対一緒に居たら、幸せになれるよ、杏奈さん。」
「あっ…はい」
「俺も、ののちゃんとまったり幸せになるよ」
「…はい」
「あいつの事で何か分からないことあったら、何でも聞いてな」
「もし」
「?…もし?」
僅かな沈黙の後、杏奈は「やっぱりいいかな」と頭を振って微笑んだ。
「お散歩、付き合ってくださって有り難うございました」
「いえいえなんの。ではホテルまでエスコートさせていただきますお」
そっと彼女の手を取ると、「オバケ出てきたらおっかないしね」と、そのまま手を繋いで歩く。
彼女は笑って「遠足みたいですね」とだけ答えた。その手も声も、とても近しく温かかった。
「あ、ナンパ師発見」
ホテルの出入り口に戻ると、晶がコミカルに顔をしかめて見せた。腰に手を当て、まるで門番だ。
「誰がナンパ師だよっての」
とぼけるなっての、と笑顔でのしかかってくる友人をよそに、杏奈は「では、お休みなさい」とくすぐったそうな笑みを隠さない。変なことしてない?と聞こえみよがしに肩に腕を回して頬を引っ張る晶に連れ込まれるように、彼女に手を振ってそのまま別れる。早朝には、もう彼女は佐世保へ向かう車中の人だ。九月まであの笑顔もお預けとなる。
別れる一瞬、自動ドア越しに彼女が何か言いかけたように見えたが、その時の問いかけは遂に分からずじまいだった。
【8月14日夜・夏夜のひととき・晶とじゃれる・その頃敦と夏彦は熟睡・続く】
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