※夏編エピローグその2・そして最終回です。
ここまで読んでいただき有り難うございました…。
そして振り出しへ。
ここまで読んでいただき有り難うございました…。
そして振り出しへ。
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更に数時間後、東京某所。
東京下町に門を構える割烹の名店。
首都の夏の夜は熱帯夜と思われているが、ここはそんな都市の人工熱とは無縁らしい。
枯山水を模した庭には青々とした低木と苔生した緑が広がり、鹿威しがかこん、とおあつらえに鳴り響く。
夕方の西日も遠のいた薄闇の中、奥座敷には柔らかな明かりが灯された。
和紙でくるまれたほおずき型の照明は、形に反して白々とした柔和な光で宴席を優しく包む。
「久しぶりね、イオ」
「お久しぶりです、マダム」
その畏まった口調は止めて、と庵に相対する女性は静かに微笑んだ。
ワインレッドのパンツスーツに身を固めた、壮年の女性。
長い栗毛に深い濃茶の瞳、気苦労が増えたせいか以前にも増して年齢相応の小皺が目立ち始めたが、全身に漲る精力は同年代の男性と比べるのもおこがましいほどに充実し溌剌とさえしている。彼女にとっての生き甲斐は仕事、そして一人娘の養育であるという。
「ミミーは相変わらず元気そうで」
「そして、貴方は相変わらず危うい。体調にはあれほど気をつけなさいと忠告されていたはずなのに」
もう自分が二度偏頭痛でダウンしていた事が知れているようで、庵はイタズラを諭された生徒のように、ミミーの前でしおらしく「ごめんなさい」と視線を臥せる。
「体調管理には気を配って頂戴。貴方は替えが効かない身だと、祖父も言っていたはず」
「さっきもそう言われました」
食事会の前に、アーサーへの見舞いを済ませた庵はそこで久しぶりにアーサーから説教ももらう羽目になった。
アーサーがまだ病み上がり、もとい入院中であるためそう長々とは叱られなかったが、むしろ逆に「頼むから無茶はせんでくれ」と涙声で何度も言い募られて随分と猛省した。大丈夫だよ、とシーツから伸ばされた手を握ると、少しばかり骨が浮いているようにさえ感じられた。
「祖父の研究への協力は有難いけど、貴方にはもっと未来を見ていてほしいの。…言っている意味は分かるわね?」
「ええ、分かります。…もう少しで、あれも完成しますので」
「具体的にはいつ頃?」
「今年の九月中旬には暫定版。順調に進めば、十月頭にはプロトタイプを試験にかけられると思います。ほぼ、前回送付しましたPDFに記載した予定通り、滞りなく進行しておりますので」
「結構。それなら充分間に合うわ。今夜は遠慮無く食べて頂戴」
貴方は報告書もスケジュールも正確だから助かるわ、とミミーは慣れた手つきでギンナンの実を箸でつまんで口に運ぶ。
大の日本食びいきなので、和食も茶碗蒸し以外はスプーンに頼らず難無く箸を使いこなす。
会社経営人材登用株式運用に果ては自社ブランドの展開と拡大に未来予想までお手の物。
こと教育分野での快進撃はめざましく、世界的な次世代エリート育成機関の母とさえ賞賛される彼女は、アーサー老の一番の「傑作」であり、同時に「一番の天敵」でもあった。
身内同士でも、上手くいかないことはある。
だが、この祖父と孫娘は利害一致で手を結ぶくらいの度量の広さを持ち合わせていた。その点、庵はやはり優秀な人物の器の大きさと同時に、かつての父との諍いを思うと僅かな理不尽とやるせなさを感じずにはおられなかった。
アーサー国際大学創立者兼理事兼学長、世界的な脳科学の権威アーサー・ミンツ。
その孫娘であり、世界第四位・英国一の大財閥マクダウェルの現社長夫人、ミミー・マクダウェル。
御年三十二歳。国の内外を問わずその辣腕ぶりには定評があり、凡庸な夫を支える賢妻の呼び声高い一方、無能は身内でさえも容赦なく切り捨てる。気性の苛烈さと共に、悩ましいほどに円熟した肉感的な容姿から、人呼んで「マダム・ミミー」と怖れられる才媛である。が、庵は「針山の如き気難しさで、サボテンのトゲの如く部下に接する」と称されるこの社長夫人にいたく気に入られており、庵自身も他人が言うほど彼女が恐ろしくはなかった。
むしろ、赤の他人の割に他人でないような既視感さえ覚える時もあった。
幾度か同じアペリティフを口にし、同じ子羊肉のワイン煮を口にし、寿司屋のカウンターで並んで大トロを食べている時にも、実家ではあり得たはずのない最高級ディナーを毎晩幼い日の彼女と共にごく当たり前に口にしていたかのような、ごく自然な空気が流れる不思議な間柄。
そして、その既視感は彼女と向かい合う時だけの特有な感覚。
その理由も分からぬ、記憶違いにも発しない既視感が、庵は何故か嫌いでなかった。
そういう訳で、庵は大学の好々爺を通じて世界的企業のマダムとお知り合いだったりするのだが、それはまた別の話。
でもそれは遠からず他のメンバーたちにも関わってくる大問題となるのだが、やはりそれもまた、別の話。
【これにて夏編終了です・長々とお付き合いいただきまして有り難うございました】
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