悪夢の指先。
*
「ただいまよっと」
古い木造のアパートのドアを開け、俺は懐かしい部屋へと帰る。
双葉と一番最初に引っ越してきた、一番最初の家。
築三十年以上の、木造アパートの二階角部屋。
どこもかしこもギシギシで、びっくりするほど壁も薄かったが、南向きで暖かい、日差しの明るい部屋だった。
「おかえり、おとーさん」
双葉が、小さな居間で洗濯物を畳んでいる。
きちんと折られたタオル、小さく畳んで重ねられた下着やシャツ。
それを整えている双葉は、今現在の高校生の姿だった。
「今日は早かったんだね。おつかれさま」
ああ、と俺が短く答えると、双葉は嬉しそうに微笑む。
その横顔は本当に嬉しそうで、一瞬、葛センパイのはにかんだ笑顔を思い起こさせる。
悪夢だ。
それも、一番嫌いな、悪夢…。
「ねえおとうさん、あのね」
双葉は洗濯物から一旦手を放すと、すっと立ち上がって、俺の目の前に立つ。
首を傾げる俺の前で、ふふふ、といたずらっこのような笑みを浮かべる。
「…どうしたよ?」
聞きたくないのに、俺は尋ねる。
そんなに上機嫌なのは、何故なのかと。
双葉は、微笑みを湛えたまま、そっと口を開く。
「できたよ」
「…なにがだ?」
双葉は両の掌を、へその下辺りに重ねる。
「ぼくと、おとーさんの、かぞく」
「かぞ、く?」
「うん、そう。ぼくのなかにいるんだ。いま、ここに、いるよ」
そう呟いて、双葉は静かに微笑みかける。
「………」
いつも、何度聞いても、
絶句してしまう。
男のはずの双葉が、受胎している。
「本当だよ。触ってみて。おとーさんには、きっと分かるよ」
そう言うと、双葉は放心している俺の手を取り、Tシャツを少しまくり上げる。
キレイに縦に伸びたヘソの丁度下辺り、肉の薄い腹部へと俺の掌を押しやる。
触れた腹部は、ひんやりと冷えた石に触れているかの如く冷たい。
しかし、赤子を宿す妊婦のそれとは少し異なる、ナイフで切った指先を血が通っていくような、鼓動が不規則な脈動で絡みつくように指先に走る。
驚いて、手を抜き取り背後へ仰け反る俺を見て、双葉は、やはり微笑んでいた。
「良かった、やっぱりおとーさんには分かるんだ」
Tシャツの裾を直し、双葉は愛おしげに己の腹部に手を当て、なぜる。
その表情は、子を慈しむ母親の像そのものだった。
「ふ、双葉…その、それはどこから…」
「あはは、何言ってるのお義父さん?言ったでしょう?これは、ぼくと、おとーさんの、こども」
「いや、じゃなくて…いったい、どこから…」
「大丈夫、ちゃんと出てくる時にも、痛くないように出てくるよ。だって」
双葉はその間、ずっと、微笑んでいる。
本当に、嬉しそうで、笑みを絶やさない。
まるで、あの日、父親のミイラに縋っていた、地下室の少年のように。
「…だって、この子は良い子だから」
そこで夢は終わる。
夢という、歪んだ現実の結論が覚め、俺は再び結果の待つ現実へ引き戻される。
俺は、あの日双葉を助ける事で全ての過去の清算は済んだと思っていた。
思いたかった。
だが、違う。
俺は、問題を先送りしただけだった。
死神は消えていない。
タルタロスも、影時間も消えはしなかった。
いつか悪夢は終わる。
俺が手を下そうと、下さまいと。
そう思い、目を逸らし、現実から目を逸らし全速力で逃げる事ばかり考えて。
何も。何もしなかった。
今、俺の身体を食い潰す病巣の如く、双葉の精神に寄生し、食い散らかす魔物の善意をどこかで信じ、黙認していた。
義理の息子を蝕み続ける影に、何一つ手を加える事も出来ずに、今再び俺はあいつを一人にしてしまう。
あれが出産…もとい、寄生虫が、母体を食い破って出てくる日。
それは再び、双葉が人間を止めるか、もしくは壊れてしまう日。
己の無力からただただ目を逸らし続け、偽善者を装い続けてきた俺のしてきた事。
手出しする事すら適わず、何の措置も講じる事が出来ず、
最愛の息子を苦しめると分かっていた死神を、息子と共に育ててしまった事。
もはや覆しようのない現実。
残り少ないタイムリミットの狭間で、俺は悩み、煩悶し、浅い眠りの中をただただのたうち回っていた。
「ただいまよっと」
古い木造のアパートのドアを開け、俺は懐かしい部屋へと帰る。
双葉と一番最初に引っ越してきた、一番最初の家。
築三十年以上の、木造アパートの二階角部屋。
どこもかしこもギシギシで、びっくりするほど壁も薄かったが、南向きで暖かい、日差しの明るい部屋だった。
「おかえり、おとーさん」
双葉が、小さな居間で洗濯物を畳んでいる。
きちんと折られたタオル、小さく畳んで重ねられた下着やシャツ。
それを整えている双葉は、今現在の高校生の姿だった。
「今日は早かったんだね。おつかれさま」
ああ、と俺が短く答えると、双葉は嬉しそうに微笑む。
その横顔は本当に嬉しそうで、一瞬、葛センパイのはにかんだ笑顔を思い起こさせる。
悪夢だ。
それも、一番嫌いな、悪夢…。
「ねえおとうさん、あのね」
双葉は洗濯物から一旦手を放すと、すっと立ち上がって、俺の目の前に立つ。
首を傾げる俺の前で、ふふふ、といたずらっこのような笑みを浮かべる。
「…どうしたよ?」
聞きたくないのに、俺は尋ねる。
そんなに上機嫌なのは、何故なのかと。
双葉は、微笑みを湛えたまま、そっと口を開く。
「できたよ」
「…なにがだ?」
双葉は両の掌を、へその下辺りに重ねる。
「ぼくと、おとーさんの、かぞく」
「かぞ、く?」
「うん、そう。ぼくのなかにいるんだ。いま、ここに、いるよ」
そう呟いて、双葉は静かに微笑みかける。
「………」
いつも、何度聞いても、
絶句してしまう。
男のはずの双葉が、受胎している。
「本当だよ。触ってみて。おとーさんには、きっと分かるよ」
そう言うと、双葉は放心している俺の手を取り、Tシャツを少しまくり上げる。
キレイに縦に伸びたヘソの丁度下辺り、肉の薄い腹部へと俺の掌を押しやる。
触れた腹部は、ひんやりと冷えた石に触れているかの如く冷たい。
しかし、赤子を宿す妊婦のそれとは少し異なる、ナイフで切った指先を血が通っていくような、鼓動が不規則な脈動で絡みつくように指先に走る。
驚いて、手を抜き取り背後へ仰け反る俺を見て、双葉は、やはり微笑んでいた。
「良かった、やっぱりおとーさんには分かるんだ」
Tシャツの裾を直し、双葉は愛おしげに己の腹部に手を当て、なぜる。
その表情は、子を慈しむ母親の像そのものだった。
「ふ、双葉…その、それはどこから…」
「あはは、何言ってるのお義父さん?言ったでしょう?これは、ぼくと、おとーさんの、こども」
「いや、じゃなくて…いったい、どこから…」
「大丈夫、ちゃんと出てくる時にも、痛くないように出てくるよ。だって」
双葉はその間、ずっと、微笑んでいる。
本当に、嬉しそうで、笑みを絶やさない。
まるで、あの日、父親のミイラに縋っていた、地下室の少年のように。
「…だって、この子は良い子だから」
そこで夢は終わる。
夢という、歪んだ現実の結論が覚め、俺は再び結果の待つ現実へ引き戻される。
俺は、あの日双葉を助ける事で全ての過去の清算は済んだと思っていた。
思いたかった。
だが、違う。
俺は、問題を先送りしただけだった。
死神は消えていない。
タルタロスも、影時間も消えはしなかった。
いつか悪夢は終わる。
俺が手を下そうと、下さまいと。
そう思い、目を逸らし、現実から目を逸らし全速力で逃げる事ばかり考えて。
何も。何もしなかった。
今、俺の身体を食い潰す病巣の如く、双葉の精神に寄生し、食い散らかす魔物の善意をどこかで信じ、黙認していた。
義理の息子を蝕み続ける影に、何一つ手を加える事も出来ずに、今再び俺はあいつを一人にしてしまう。
あれが出産…もとい、寄生虫が、母体を食い破って出てくる日。
それは再び、双葉が人間を止めるか、もしくは壊れてしまう日。
己の無力からただただ目を逸らし続け、偽善者を装い続けてきた俺のしてきた事。
手出しする事すら適わず、何の措置も講じる事が出来ず、
最愛の息子を苦しめると分かっていた死神を、息子と共に育ててしまった事。
もはや覆しようのない現実。
残り少ないタイムリミットの狭間で、俺は悩み、煩悶し、浅い眠りの中をただただのたうち回っていた。
トラックバックURL↓
http://3373plugin.blog45.fc2.com/tb.php/68-a4ba87c2
| ホーム |